小林一三(こばやしいちぞう)さんは、阪急電鉄を持つ阪急阪神東宝グループの創業者です。
明治6年生まれの小林さんですが、とにかくビジネスセンスが突出しており、今現在では当たり前になっているようなビジネスモデルを生み出した事で「天才起業家」と言われています。
そんな小林さんの功績についてなど、お伝えします。
小林一三のプロフィール
本名:小林一三
生年月日:1873年(明治6年)1月3日
没年月日:1957年(昭和32年)1月25日
出身地:山梨県韮崎市
最終学歴:慶應義塾正科卒業
小林一三ってどんな人?
小林一三さんは、1873年1月3日生まれで、誕生した日をとって「一三」という名前になりました。
ご実家は酒造業や絹問屋などを営んでいた豪商で、非常に裕福でした。
ですが、小林さんが生まれた後にすぐ母親が亡くなり、父とも離れ離れになったため、おじ夫婦の元で育ったそうです。
学生時代は文学青年で、小説家を目指していました。
福沢諭吉が議長だった慶應義塾に入学し、銀行員の初任給が13円という時代に半期に500円ずつ実家から送金があり、そのお金で芝居などを見まくっていたそうです。
当時はかなりのんきな暮らしをしていた、と言われています。
ですが、ただ遊びまくっていただけではなく、靄溪學人というペンネームで「練絲痕(れんしこん)」という小説を山梨日日新聞で連載してもいました。
多島斗志之『黒百合』の解説でその存在を知った靄溪學人(小林一三)「練絲痕」を読む。
涙香「無惨」発表の翌年明治23年に山梨日日新聞に9回に渡って連載された作品だが1回が短いので全体でも短編の長さ。
実際の事件を元にしたために警察に関係者と疑われ、新聞社からの要請により打切りとなる。 pic.twitter.com/ZfQscBZ3X6— ゆーた (@latteteddy) August 8, 2021
残念ながら小説家になるという夢は叶えられず、大学卒業後に三井銀行に入社しました。
この入社の時に、普通では考えられないエピソードがあります。
三井銀行の新入社員の初出勤は1月からと決まっていたそうですが、年末に熱海の友人の所に遊びに行ったまま帰って来ず、熱海で遊んで暮らしていたそうです。
ようやく小林さんは三井銀行に出勤したのは、それから3ヶ月後の4月だったそうです。
ですがクビになるわけではなく、他社員から3ヶ月遅れで仕事を始めました。
なぜそんな事が許されたのかというと、小林さんを三井銀行に推薦したのが三井呉服店の理事などを務めた社内の大物であった高橋義雄さんだったためです。
いわゆる「コネ」で入社し、3ヶ月も遅れて仕事に来るような決して真面目とは言えないような社員だったそうです。
何よりも実家が非常に裕福で、働いて手にする給料とは比べ物にならないほどの仕送りを得ていたことを考えると、仕事に精が出ないのも納得はできますね。
ですが、小林さんの人生の転機は、その銀行員として働いていた時に訪れました。
大阪支店に勤務していた時、岩下清周さんという方が支店長として赴任してきました。
岩下さんは、小林さんに事業のおもしろさを教えたと言われています。
そして、1907年に岩下さんから誘われた事で三井銀行を退職し、現在の阪急電鉄である「箕面有馬電気軌道」の設立に携わりました。
その瞬間が、後に「天才起業家」「鉄道王」と呼ばれることとなる人生の始まりだったのでした。
小林さんは鉄道経営を軸にして、様々な事業を興していきました。
きっと普通では考えられないような行動をする小林さんだからこそ、天才起業家と呼ばれるようなアイデアを思いつくことができたのでしょう。
やったこと&すごいところ
小林一三さんがやったすごい事は、今では当たり前になっている私鉄による多角経営のビジネスモデルを作り上げたことです。
小林さんのアイデアは、「電車に乗ってもらわなければいけないから、乗ってもらう理由を作ればいい」という考えに基づいています。
まず始めに思いついたのは、大阪梅田から路線を伸ばしていた池田方面の牧歌的な風景を眺めた時に、郊外に住宅地を作ってそこに住んでもらい、その人たちが都市へ移動するために電車に乗ってもらう、ということでした。
そこで考え付いたのは、「頭金で2割、残りを10年間で払い込む」という「住宅ローン」の元となるアイデアでした。
その制度を使えば、それまで自分の家を持つなど夢のまた夢だと思っていたサラリーマンが、マイホームで豊かな生活を作ることができたのです。
次に思いついたのは、学生時代に見まくっていた「芝居」をヒントにし、芝居小屋に来てもらうために電車に乗ってもらおう、という考えでした。
当時、少年音楽隊が世間で流行っており、「これが少女だともっと良いのでは?」という発想で少女のみの歌劇団を作る、というアイデアでした。
そしてそれが実現したのが「宝塚唱歌隊」で、今の「宝塚歌劇団」です。
しかも、小林さんは学生時代に小説家になるのが夢だったわけですから、物語を書くことができます。
そうして「紅葉狩」や「ダマスクスの三人娘」などの作品を書き上げ、宝塚歌劇団で上演しました。
1913年7月1日、 小林一三が宝塚歌劇団の前身である「宝塚唱歌隊」を結成しました。
宝塚新温泉にある日本初の屋内プール「パラダイス」が閉鎖された後、跡地を活用した温泉場の余興として、少女達が歌を披露する組織が結成されました。
小学校卒の少女に大卒者並の給与が支払われたそうです。 pic.twitter.com/ndH5XvqQjQ— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) June 30, 2023
そして、もう1つ小林さんが作り上げたビジネススタイルは「駅から直結の百貨店」でした。
今や大きな駅には百貨店やデパートがあって当然ですが、当時は駅から直結する商業施設も、鉄道会社が百貨店を営むことも、世界的に見ても前例がありませんでした。
小林さんはそれまで百貨店経営の経験はなかったため、東京で百貨店を営んでいた「白木屋」が関西進出をする足がかりとして、大阪梅田駅で駅ビルの1階に出店させました。
それで手応えを感じた小林さんは「阪急百貨店」を設立し、地上8階地下1階の巨大な百貨店を作り上げたのでした。
山梨県韮崎市出身
小林一三さんは阪急グループの創設者のため関西人と思われがちです。
しかし実際には、山梨県韮崎市で生まれました。
小林さんが生まれた当時は、郡が統合される前。
その頃は、山梨県巨摩郡河原部村という呼び名でした。
河原部村は小さな村。
まさかこれほど成功する事業家がその村から誕生するとは、村の人は誰も思っていなかったでしょう。
甲府に行く前に手前の韮崎に立寄ってます。個人的には登山の時に通過するだけの小さな市ですが、ノーベル賞受賞の大村さんや、元サッカー代表中田ヒデの出身地という凄い所。でも何が凄いって、我らが小林一三翁の出身地!なので生家跡に行きました。 pic.twitter.com/vR30IqlJUi
— 腰巾着 (@otanamakasa) October 28, 2015
今では韮崎市出身の大物ということで、生誕の地として生家跡地に碑が建てられているそうです。
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