忌野清志郎、本当の死因は病気。最後の言葉が話題。闘病3年&がんで迎えた最期

忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんは、2009年5月2日に58歳という若さで亡くなりました。

多くの日本のロックミュージシャンに影響を与えた清志郎さんの死に、各界の著名人からも悲しみの声が上がりました。

そんな清志郎さんの死因についてや、最後の言葉などについて、お伝えします。

忌野清志郎のプロフィール

本名:栗原清志

生年月日:1951年(昭和26年)4月2日

没年月日:2009年(平成21年)5月2日

身長:168cm

出身地:東京都中野区

最終学歴:東京都立日野高等学校卒業

所属事務所:ベイビィズ

忌野清志郎、本当の死因は発表のとおり病気

忌野清志郎さんの死因は、「がん性リンパ管症」と発表されています。

ですが、本当の死因が他にあるのではないか、と疑っている方々がおられるようです。

というのも、清志郎さんが若かりし頃から「反戦」や「反原発」などをテーマにした楽曲を歌ったり、政府を批判するような歌を作ったりしていたため、暗殺されたのでは、と考えている方もいらっしゃるようです。


実際に、反原発に関する歌を収録したアルバムは、発売中止に追い込まれてしまったことも過去にはありました。

それはRCサクセションとして1988年8月15日にリリースした「COVERS」という洋楽のカバーアルバムでした。

制作された当時は3枚組というボリュームでしたが、収録曲に問題があるとし、レコード会社にダウンサイジングされ、7曲にしろと言われていました。

問題があるとされていたのは、反原発のメッセージの込められた「サマータイム・ブルース」などの楽曲でした。

バンドとレコード会社側の話は折り合いがつかず、新聞広告に「素晴らしすぎて発売できません」と出してくれという清志郎さんの発言で、実際にその文言をコピーにした発売中止の広告が新聞に掲載されました。

最終的にはファンからの発売を望む声のあまりの多さに、レコード会社を変更して「COVERS」はリリースされました。

そういった物議を醸すような行動が、権力者の怒りを買って暗殺されてしまった、と言われています。

ですが、暗殺されたという証拠はもちろんなく、本当の死因は報道されている通り「がん性リンパ管症」だった可能性が高いでしょう。

しかし、そういった噂が囁かれるのは、清志郎さんが音楽にいかに社会に対するメッセージを込めていたのか、音楽を通じて世の中を変えようとしていたのか、ということがわかるエピソードだと思われます。

ファンへの最後の言葉

忌野清志郎さんが最後にファンに向けて直接ステージから言葉を送ったのは、2008年11月20日にブルーノート東京で開催されたブッカーT&THE MG’sのライブに飛び入りでゲスト出演した時でした。

ブッカーT&THE MG’sは、1992年3月25日にリリースされた清志郎さんのアルバム「Memphis」に参加しており、その時から親交がありました。

そしてすでにがんの再発を受けて休養をしていた清志郎さんですが、久しぶりのブッカーT&THE MG’sの来日公演に出向いておられたそうです。

ライブの最中にステージで「長年の友達、キヨシローを紹介する!」とメンバーに呼ばれて戸惑いながらステージに上がったそうですが、音が鳴り出すとロックスターに戻ったという清志郎さん。


そして、「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」と「ソウルメン」の2曲を熱唱したそうです。

観客はまさか休養中の清志郎さんの歌が聴けるとは思っておらず、会場はものすごい熱気に包まれたそうです。

そしてステージを降りる時に清志郎さんがファンに放ったのは、「ゴキゲンだぜ!ベイベー!」といういつもの挨拶でした。

清志郎さんが飛び入りして歌を披露したということはすぐにニュースになり、「復帰も近いのではないか?」と言われていましたが、それが清志郎さんにとって、生涯で最後のステージとなってしまいました。

最後のステージは清志郎さんにとっても意図していないサプライズ的なものとなってしまいましたが、清志郎さんらしく締められて、ある意味ではよかったかもしれませんね。

闘病3年、がんで迎えた最期

忌野清志郎さんががんを患ったのは、2006年7月でした。

喉頭がんであったため、医師からは声帯摘出手術を勧められましたが、歌えなくなる事から拒否し、放射線と抗がん剤による治療を選択しました。

玄米菜食法なども試し、復帰へ向けて懸命に闘病されていました。

髪が抜けたりなど、壮絶な経験をしましたががんに打ち勝ち、2008年2月10日には「忌野清志郎 完全復活祭」を日本武道館にて開催し、歌手として復帰しました。

ですが、同年7月14日にホームページに左腸骨への転移が認められたことを報告し、ライブ活動を休止することを発表しました。

他アーティストへの楽曲提供やレコーディング活動は、体調を見ながら続けていました。

ですが、2009年5月に急激に体調が悪化し、2日午前0時51分に家族やミュージシャンの仲井戸麗市さんらに見守られながら、永眠されました。


58歳というあまりにも早い死に、世間にも衝撃が走りました。

もう清志郎さんの新しい楽曲を聴くことはできませんが、数多く残された名曲は、いつまでも聴き続けられるでしょう。

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