ロックのカリスマとも、キングオブロックともいわれ、いまでもその楽曲が歌い聞き継がれている、忌野清志郎(いまわのきよしろう)さん。
カリスマといわれるまでになった忌野さんにも、思春期があり、思い悩んだ日々がありました。
忌野さんの楽曲からはそうした苦悩や社会への反発心などが感じられ、大きな共感を生んでいるのかもしれません。
そこで今回は、忌野さんの生い立ちにおけるご家族とのかかわりを中心にお伝えしていきます。
忌野清志郎のプロフィール
本名:栗原清志(くりはらきよし)
生年月日:1951年(昭和26年)4月2日
身長:168cm
出身地:東京都中野区
最終学歴:東京都立日野高等学校卒業
所属事務所:ベイビィズ
忌野清志郎、母親の新聞投稿が話題
忌野さんの死後、忌野さんの母親が新聞の人生相談に高校生の息子の将来を案じた相談を寄せていたことがわかり、話題になりました。
発端となったのは、X(旧Twitter)での投稿だったようです。
その投稿は既に削除されているのか、確認はできませんでした。
ただ、母親が相談したといわれている新聞記事の投稿がありましたので、ご覧ください。
忌野清志郎の母親が新聞に投稿して相談した、息子清志郎の様子がのっぴきならない(笑)#忌野清志郎 pic.twitter.com/M6dLEEUvGr
— ORGA (@loverylita) September 16, 2019
「進学したくないと申します」、「学校を休んだ日は一日中寝ております」、「お勤めなどいやだ」って自分の思春期もそうだったと思いあたる方が多そうな内容です。
忌野さんの母親の名前は久子さんで、相談者の「H子」は久子さんだと考えられています。
久子さんは、かなり教育熱心な方だったようです。
子供の将来を心配するあまり、相談されたのでしょう。
しかし、相談を担当された方々は、久子さんの過干渉であり、心配しすぎだとなだめたようです。
久子さんは、結局、忌野さんの担任の先生とも話をしたうえ、4年間は大学に行かせたつもりで好きなことをやらせようと決められました。
久子さんがここまで、熱心に将来を心配したのには、養母としての責任を感じていたからではないでしょうか。
忌野さんの実母は、忌野さんが3歳のときに胃がんでお亡くなりになっています。
そのとき、忌野さんを引き取り、育ててくれたのが実母・富貴子さんの姉・久子さんでした。
早くに亡くなった妹のためにも、子供をしっかりと育ててあげたいとの思いがあったのだろうと想像されます。
実の子のように、将来を心配しても反発されるのは、自分が養母だからではないかと悩んで相談されたのかもしれませんね。
忌野清志郎の実家は国分寺市富士本
忌野さんが育ったご実家は、東京都国分寺市富士本にあります。
忌野さんは、3歳のときに実母を亡くしてから、国分寺市に住む養父母のもとで育てられました。
この国分寺市が、忌野さんのファンにとっては聖地となっています。
特に、国立市との境にある「たまらん坂」の標柱付近は、忌野さんの命日になると花や缶ビールなどが供えられます。
それは、RCサクセション時代に発表された『多摩蘭坂』というバラード曲があるからです。
忌野さんの足跡が残っているのは、たまらん坂だけではありません。
『トランジスタ・ラジオ』で授業をさぼりたばこを吸っていたのは、忌野さんの出身校・都立日野高等学校の屋上で、実体験から作られた歌だといわれています。
また、国分寺市には国分寺崖線による坂道がいくつもあり、忌野さんの曲にも多くの坂が登場します。
歌詞に描かれた情景を探しながら、忌野さんが育った国分寺市をめぐるのも楽しいかもしれませんね。
忌野清志郎の出身地は中野区
忌野さんは東京都中野区の出身です。
実母の富貴子さんが亡くなり、国分寺市の養父母に引き取られるまでは、中野区で過ごされていたと思われます。
忌野さんが、富貴子さんのことを知ったのは、養父・康平さんが亡くなったあとでした。
養母・久子さんは、康平さんの2年前に亡くなっていました。
康平さんの初七日のころに、親戚のおばさんが、実母の遺品を持ってきてくれたそうです。
その中には、富貴子さんの写真や、前夫の手紙などを収めたスクラップ帳があったようです。
富貴子さんにとって、忌野さんの実父との結婚は再婚でした。
最初の夫は、戦地で戦死されています。
そのため、富貴子さんは戦争に対して反対の思いを持っていたようです。
反戦の思いが込められた俳句なども見つかったといいます。
この遺品を受け取ったのは、核や原発などを取り扱った歌詞が問題となり、アルバム『COVERS』が販売中止となった1988年のことでした。
母の遺品を見た忌野さんは、反戦の思いを遺伝子レベルで受け継いでいると感じたそうです。
また、母の顔を初めて見られたことがかなりうれしかったようです。
それからは、写真をいつも持ち歩いて、仲間たちにも見せびらかしていたといいます。
そして、半年後には覆面バンド・ザ・タイマーズとして、アメリカのロックバンド・モンキーズの『Daydream Believer』に日本語詞をつけてカバーしました。
この曲で歌われている「彼女」や「クイーン」は富貴子さんのことだといわれています。
写真とはいえ、37歳になって初めて出会えた母への愛情を爆発させた曲になっていました。
忌野清志郎、2人の父親
忌野さんには、実父と養父、2人の父親がいました。
養父は、栗原康平さんといいます。
忌野さんの実母亡きあと、実母の姉である久子さんと共に忌野さんを育ててくれました。
東京ガスに勤務していて、真面目なサラリーマンと表現できるほど、勤勉な方だったようです。
実父は、新井弘さんといいます。
富貴子さんを亡くしてから、忌野さんを養子に出しましたが、2歳年下の弟・毅(たけし)さんを育てていたそうです。
後に再婚をされています。
新井さんは、忌野さんを養子に出した後も、ときおり会いに来ていたようです。
忌野さんが、自分が養子であると感じだしたのが中学の1・2年のころだったといいます。
完全に実父であることがわかったのは、養父母が亡くなってからだったそうです。
2006年7月に、忌野さんが喉頭がんで闘病しているときは、療養のため一緒に温泉旅行に行ったなんて話もあり、親子として過ごす時間も持てたようです。
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