小椋佳、若い頃に銀行員なぜ?浜松支店長だった銀行員時代。学歴がすごい&実家が小料理屋

小椋佳(おぐらけい)さんは、様々なアーティストに楽曲を提供しご自身もシンガーソングライターとして活躍する傍ら、銀行員としてもエリートコースを走っておられました。

そんな小椋さんがなぜ銀行員を続けながらアーティスト活動をしていたのか、その経緯などについてお伝えします。

小椋佳のプロフィール

本名:神田紘爾

生年月日:1944年(昭和19年)1月18日

身長:176cm

出身地:東京都下谷区東黒門町

最終学歴:東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了

小椋佳、若い頃なぜ銀行員になった?

小椋佳さんは、琵琶奏者の父と芸事が好きな母親を持っていましたが、幼少期から音楽の道に進もうと思っていたわけではありませんでした。

むしろ子供の頃は野球選手になりたいと思っていたような活発な子供だったそうです。

小学生の頃から勉強はでき、一浪ののちに東京大学文科一類に進学し、3年の時に法学部へ進学しました。


そんな大学時代に「何か創造的なことがしたい」と、小説を書いたり、絵を描いたりしはじめましたが、その中の一つが音楽でした。

ですが、あくまでも創作活動は趣味でやっていたことで、大学卒業後には銀行への就職が決まっていました。

そんな中、寺山修司の舞台を観劇し感銘を受けると、電話帳に載っていた寺山さんに直接電話をかけました。

すると、なんと寺山さん本人が電話口に出て話すうちに意気投合し、寺山さんの家に出入りするようになっていました。

1967年には東大を卒業し、予定通りに日本勧業銀行に入行し、銀行マンとしてエリートコースをひた走っていました。

その間も音楽活動は趣味として続けていましたが、あるとき寺山さんがパーソナリティーを務めていたラジオ番組の「5分間なんでもコーナー」に出演。

自作の楽曲を歌うと、それがきっかけで寺山さんが主催していた天井桟敷のレコード「初恋地獄篇」に3曲歌うことになりました。

すると、そのレコードで小椋さんの歌を聞いたレコード会社のプロデューサーだった多賀英典さんが歌声に惚れ込み、レコードデビューさせたいと関係者に連絡しました。

その時多賀さんは小椋さんの声のイメージから15~16歳の美少年をイメージしていたそうです。

ですが、関係者は「東大卒のエリート銀行員だからやめたほうがいい」と言われたそうです。

それでも多賀さんは喫茶店で小椋さんと会う約束を取り付けましたが、小椋さんを一目見てすぐ「何と言って断ろう」と思ったそうです。

あまりも声のイメージと小椋さんの実像が違ったのでしょう。

しかも、小椋さんはすでに結婚しており、子供までいました。

ただ、小椋さんから渡された自作の曲を聞いた瞬間、「この曲なんとかするから!」と叫んでしまうほど感動したそうです。


その時に聞いたのは後に小椋さんのデビュー曲となる「しおさいの詩」でした。

あれよあれよという間に話が進みデビューすることになりましたが、問題は銀行員として働いていることでした。

銀行員を辞めることも考えたものの、レコード会社の社員の反応で考え方を変えたそうです。

ある時レコード会社の営業会議で、小椋さんと井上陽水さんの写真が並べられていたのだとか。

社員たちが風貌から井上陽水さんの方を売り出していくことに決めたのを見て、銀行は辞めないでおこうと決めたそうです。

その出来事があったことで、小椋佳さんはデビューから20年間ほとんど表に出ず、銀行員とアーティスト活動の二足のわらじを履いていくことになったのでした。

浜松支店長だった銀行員時代

ミュージシャンとして認められた小椋佳さんですが、銀行員としても出世街道まっしぐらで、入行からそう時間がかからずに次長、課長などの役職を経験していくこととなりました。

銀行には音楽活動をやっていることは許されていましたが、当初は控えめに行っていました。

ですが、1975年に布施明さんに提供した楽曲「シクラメンのかほり」が大ヒットし、マスコミが「作曲者は銀行マン!」と大騒ぎしました。

そのおかげで銀行でも小椋さんの音楽活動が問題になりました。

ですが、当時の小椋さんの上司で後に頭取になる宮崎邦次さんが「彼はみんなと同じように残業もして一生懸命仕事をしている」と小椋さんをかばい、騒ぎは落ち着きました。

歌手としても注目を集めてしまい隠れているわけにもいかず、コンサート活動も開始しました。


実はその頃小椋さんは銀行の中でも若くして頭取候補になっていました。

ですが、その時小椋さんはまだ支店長の経験がなく、それは問題だということになって浜松支店長になることになりました。

小椋さんの勤務地が浜松になったことを知った浜松市民は大騒ぎしたそうです。

そして、地元の要請があり「浜松おどり やら舞歌」を作りました。

また、担当取引先だったという縁で浜松市の菓子製造会社の「うなぎパイ」のタイアップ曲「うなぎのじゅもん」も制作しました。

小椋さん的にこれらの楽曲を作ることに関してどう思われていたのかは不明ですが、いちサラリーマンとしては断るわけにはいかなかったのでしょう。

学歴がすごい&実家は小料理屋を経営

小椋佳さんは大変高学歴です。

一浪の末に東京大学文科一類に入学すると3年の時に法学部へ進学し卒業しました。

それだけはなく、1993年に銀行を退職した後に再び東京大学法学部へ学士入学し、法学部第3類(政治コース)を卒業しました。

その後には東京大学分各部思想文化学科へ進学、また大学院でもさらに学びを続け、2000年には哲学専攻で修士号まで取得されました。

そんな小椋さんの実家は東京都下谷区東黒門町。


「千葉屋」という小料理屋を営んでおられました。

まさか息子さんがそこまで高学歴で、銀行マンになり、音楽の道でも大成功するとはご家族でも思っていなかったでしょう。

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