脚がとても美しく100万ドルもの保険をかけていたと言われる、歌手の朱里エイコさん。
精神不安定な状態が続いたとされる晩年を送り、2004年に死因は心不全で亡くなりました。
家族とは一緒に暮らすことのできない幼少期を過ごしたそうです。
結婚をした夫は当時の担当マネージャーだったことなどについてお伝えしていきます。
朱里エイコのプロフィール
本名:田辺栄子(たなべえいこ)
生年月日:1946年3月19日
死没:2004年7月31日(享年58歳)
出身地:東京都
最終学歴:目白学園高等部卒業
事務所事務所:エルフィンスケジュール(晩年)
朱里エイコの晩年は精神が不安定な状態
日本人が海外で芸能活動をするのが珍しい時代に、世界で活躍をしていた歌手の朱里エイコさん。
Buonasera〜🤱💞エドちゃん😉🥂✨レナウン「イエイエ」のコマーシャルソングを歌ったのは朱里エイコさん😉💞✌️パンチ💥あるネ🤭💦✌️💞💥✨😻😻💝✨ pic.twitter.com/uRcN2w3UE5
— みんなの恋人エドちゃん😉💞 (@taxigial) December 5, 2023
2004年7月31日に58歳でこの世を去っています。
晩年はどんな生活をしていたのかを調べていってみましょう。
若い頃はアメリカで歌手活動をしている期間が長く、日本ではなかなか彼女の実力は認められませんでしたが、1972年にリリースした「北国行きで」が大ヒット。
紅白歌合戦に出場するほど有名な歌手になりました。
晩年は目立った活躍などはなく、「あの人は今」のような番組に出演する程度の過去の人となっていたようです。
#朱里エイコ の声を思い出してほしい。誰かがその声を覚えていてくれたら、それで満足な人だった。
能瀬理子「歌手『朱里エイコ』の超壮絶人生」、「新潮45」2004年12月号より抜粋。2004年7月31日彼女は旅立った。
俺はリアルタイムで貴女を存じ上げないけど貴女の歌は永遠に不滅です。 pic.twitter.com/0ngRQNyzRx— masa.ogura (@masafumiogu) April 8, 2023
1972年3月と5月に交通事故に遭い、そこから精神的に不安定な状態に陥っていったのだといいます。
1970年代から始まったアイドル全盛時代に朱里さんのような実力者はなかなか評価をしてもらえず本人もかなり焦っていたことも精神不安定な一因になっていたようです。
また、1973年に福島で開催した自身のリサイタルのときには、歌の歌詞を忘れてしまいその後に歌うことができなくなり、リサイタルが途中で中止になりました。
そしてあろうことか楽屋からマネージャーと失踪し、翌日以降の公演をキャンセルせざるを得ない状況になったといいます。
失踪の理由は当時交際していた担当マネージャーとの関係に周囲が反対したことへの反抗だったのではないかとマスコミを騒がせました。
その担当マネージャーとは1974年に結婚をしましたが、1978年には協議離婚。
今度は妻子のある男性と不倫関係になります。
不倫が大きなストレスとなり朱里さんは肝臓病に罹ってしまいます。
療養生活を送りました。
精神不安定のまま歌手活動を続け、1983年に名古屋でまた失踪をします。
朱里エイコというと昔の新聞記事で見た「名古屋国際ホテル」からの失踪事件を思い出します… #0時歌謡
— キネコ (@kinekoV) January 22, 2017
赤坂コンドルブルーに出演していたときも、開演時間に会場に現れないという事件を起こしています。
理由は、栄養ドリンクを飲んだ直後に精神科で処方されている薬を服用してしまったことでパニック状態になってしまったということのようです。
自宅で苦しんいる状態の朱里さんが発見されといいます。
亡くなる15年前からは肝臓病以外にも心臓も悪くなりました。
入退院を繰り返すような生活を送っていて、薬の副作用から15キロ以上も体重が増えてしまったそうです。
朱里エイコの死因は心不全
朱里エイコさんは2004年7月31日に亡くなっています。
朱里エイコっていい歌手だったけど
謎の死…— こし餡系 (@bl7rm986) July 22, 2015
謎の死や孤独死などという声もありますが、死因は虚血性心不全。
東京都足立区竹ノ塚の自宅でパジャマを着たまま亡くなっているのを同居人が発見したそうです。
朱里エイコ ワーナー・イヤーズ 1971-1979 10枚組BOX(2011・Warner Music)。精巧な紙ジャケ・リマスター盤でオリジナルアルバムを再現。ブックレットには鈴木啓之さんの解説。苦労の末アメリカで歌を磨き認められての再々デビュー。70年代のソウルフルな歌声に浸れます。病気での早逝が実に残念。 pic.twitter.com/hzfMlOwVzT
— 佐藤 宗睦 (@munechika_sato) August 19, 2021
朱里エイコの家族構成まとめ
波乱万丈な人生を送った朱里エイコさんですが、どんな家族で育ってきたのでしょうか。
朱里さんの母親の名前は「朱里みさを」さん。
舞踏家、振付師で「エド・サリヴァン・ショウ」というアメリカのバラエティ番組にも出演経験のある国際人だったようです。
専門ジャンルはジャズダンスで、宝塚歌劇団の振り付けなども担当する実力派でした。
みさをさんは戦後の浅草の「オペラ館」でスターダムにのし上がり結婚をしています。
相手は朱里さんの父親でオペラ歌手の「秋山信一」さん。
結婚後に「朱里みさを舞踏団」として巡業をしている中、朱里エイコさんが北海道札幌市で誕生しています。
父親の秋山さんの暴力が酷く離婚。
朱里さんは母親に引き取れています。
母親のみさをさんは離婚後には再婚。
みさをさんは舞踏団で日本や世界で巡業をしていました。
そのため、朱里さんは子供の頃は叔父宅に預けられ育ててもらっていたようです。
ようやく母親と住めるようになったのは大きくなってからだといいます。
兄弟がいるかについての情報はありませんので、兄弟はいないのではないかと考えられます。
結婚した夫は担当マネージャー
朱里エイコさんは1974年に結婚をしています。
お相手は当時の担当マネージャーでした。
1972年に朱里さんがヒット曲を出し人気も出た頃、コンサート中にマネージャーと失踪をしその後のスケジュールに穴を空けるという事件を起こしています。
失踪した2人は恋愛関係にありました。
しかし、朱里さんの周りの人間は2人の恋愛を反対していて、それに腹を立てた朱里さんがマネージャーを連れて失踪したと言われています。
前代未聞の失踪劇に世間は大騒ぎでした。
そのマネージャーと周りの反対を押し切り、1974年に結婚をして、1978年には協議離婚をしています。
離婚後の2人の関係ですが、事務所の社長と所属タレントとして過ごしていました。
夫婦としては上手くいかなかった2人ですが、仕事上は信頼関係が成立していたようです。
後に朱里さんは妻子のある男性と不倫をしてしまい、そのストレスで病気を患っています。
1年の療養期間があったとされていますが、そのときも彼女の療養につきあったのは元夫だったようです。
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