なかにし礼が死去。家族の支えと心筋梗塞、食道がん闘病。嫁・石田ゆりのうつ病

戦後の日本歌謡界を代表する作詞家であり、直木賞作家でもあるなかにし礼(れい)さん。

近年は二度もがんから生還し、仕事には復帰していましたが、2020年12月23日に心筋梗塞のため東京都内で逝去されました。

これまでの闘病、そしてそれを支えた家族にも注目。

息子や娘、嫁の石田ゆりさん、孫について紹介します。

なかにし礼が逝去

1938年9月2日生まれで2020年は82歳を迎えた、なかにし礼さん。

しかし同年12月23日に心筋梗塞が死因となり、逝去されました。

2015年10月当初、担当の医師から、がんは完全に克服したと太鼓判を押されたなかにし礼さん。


心筋梗塞への対処は行なっており、2016年4月に突然死を回避するための手術を受けていたことがわかりました。

心臓の能力が健常者の約半分しかなかったというなかにし礼さん。

それまでは心室細動の再発による突然死の恐怖と常に隣り合わせの状態でした。

体調も、再発時の抗がん剤治療で衰弱はしたものの、回復していたとのこと。

腫瘍マーカーも正常値以下だったそうです。

2019年3月には日本オペラ協会創立60周年記念公演としてオペラ『静と義経』を新制作、上演。

6月にはエッセイ『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』を出版しました。

食道がんに打ち克った時に最初に考えたのは、やり残したことがあるのではないかということだったそうです。

戦争体験や兄との愛憎などの壮絶な過去を経て、二度もがんから生還したなかにし礼さん。

今では想像もつかないような実体験から数々の作品が誕生しているのかもしれませんね。

なかにし礼さんは若い頃から心臓疾患を繰り返しており、心室細動を原因とする心筋梗塞で緊急入院した経験の持ち主。

もともと心臓の能力が健常者の約半分しかなかったそうです。

以降は2ケ月に一度の定期検査を続けてきました。

2016年4月には、致死性不整脈を感知して治療する植え込み型除細動器(ICD)や心臓ペースメーカーを体内に埋め込んだようです。

不整脈は心臓突然死の最大の原因といわれていますから、突然死の恐怖が消え、大きなストレスから解放されたことになりますね。

脈拍データは機器を通じて心臓血管研究所に毎日届けられているとのことで、何ものにも代えがたい安心感があったことでしょう。

結果はずっと異常なしで、2020年までは治療もしておらず、元気だった頃とほぼ変わらない日常生活を送っていたそうです。

にもかかわらず、容体は急変。

2020年12月に82歳で逝去された、なかにし礼さん。

最後まで創作活動への意欲は全く衰えていないとの発言をしていました。

2019年3月には、台本を手がけたオペラ『静と義経』が上演されたほか、6月にもエッセイ『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』を出版しています。 

なかにし礼の食道がんとの闘病

2012年3月5日、コメンテーターを務めるワイドショーで食道がんであることを公表し、すべての仕事をキャンセルして闘病生活に入ったなかにし礼さん。

すでにステージⅢだったそうです。

医師からは抗がん剤治療、放射線治療、手術という提案がありましたが、心臓に不安を抱えていたなかにし礼さんは、先進医療の陽子線治療を選択。

がん患者の誰もが受けられる治療法ではありませんが、陽子線治療が実ってがんを克服しました。

同年10月に復帰し、執筆やコメンテーターの仕事も再開。

その後も3ケ月おきに検診を受けていましたが、2015年2月に食道のリンパ節に再発。

陽子線治療は使えませんでした。

がんが前回陽子線を当てた付近にあり、気管支に密着していたため、そこに再び陽子線治療を施すと、気管支に穴が開いてしまう可能性があったそうです。

なかにし礼さんは、手術中に心臓が止まったらもはやしかたがないという覚悟で手術に臨み、その後抗がん剤治療を受けることに。

9月には再発がんが消えたことを発表し、テレビ出演などの活動も再開していました。

闘う力 再発がんに克つ』は、八方ふさがりのなかでの手術の選択や心境の変化などを記したリアルな闘病ノンフィクションです。

なかにし礼の嫁・石田ゆりはいしだあゆみの妹

前述した通り、なかにし礼さんには二度の結婚歴があります。

立教大学在学中から手がけていたシャンソンの訳詞から、歌謡曲の作詞に活動の場を広げたきっかけが、最初の嫁との新婚旅行中に出会った石原裕次郎さんでした。

シャンソンの訳詞ではなく日本の歌の詞を書くように勧められたのです。

その後なかにし礼さんは、それぞれの時代を代表するヒット曲の作詞で一世を風靡。


ザ・タイガースの「花の首飾り」、ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」、アン・ルイスさんの「グッド・バイ・マイ・ラブ」、細川たかしさんの「北酒場」、北島三郎さんの「まつり」など、グループサウンズから演歌まで、そのレパートリーの広さには驚かされますね。

1971年10月16日に再婚した石田ゆりさんは本名を中西由利子さんといい、いしだあゆみさんの妹です。

なかにし礼さん原作のNHK朝ドラマ『てるてる家族』の主人公・冬子は、石田ゆりさんがモデルとのこと。

石田ゆりさんは宝塚音楽学校を卒業後、「名月ゆり」という芸名が決まっていたにもかかわらず、入団を辞退。

歌手としてデビューしました。

当時、姉のいしだあゆみさんの「ブルーライトヨコハマ」が大ヒットしていた影響があったのかもしれません。

宝塚音楽学校で同期だった小柳ルミ子さんも宝塚には入団せず歌手デビューしていますね。

石田ゆりさんは「悲しみのアリア」などのシングル4枚とアルバム2枚をリリースしましたが、残念ながらヒット曲には恵まれず、全シングルの作詞を担当したなかにし礼さんと19歳で結婚。

その後はドラマ『ムー一族』などに出演しましたが、以降はほとんどメディアには登場していません。

なかにし礼の嫁・石田ゆりがうつ病に

生きようという気持ちを持つ一方で、死の準備もしていたというなかにし礼さん。

翌年の桜はたぶん拝めないだろうという状況での闘病生活は、家族の心にも大きなダメージを与えました。


後年、なかにし礼さんは週刊誌のインタビューで、嫁の石田ゆりさんがうつ病を患っていたことを告白。

毎日病院に通い、献身的に看病を続けてきた石田ゆりさんは、いつしか食事が食べられなくなり、夜も眠れなくなっていたようです。

入院していた病院には精神腫瘍科があったため、受診を勧め、処方された薬を試したところ、体調は日に日に回復。

なかにし礼さんは二度目のがん闘病で、嫁への思いや愛に改めて気づいたと話しています。

同時に、子供たちがいかに自分のことを大事に思ってくれているかを身にしみて感じたそうです。

がんとの闘いは、家族に対する新たな気づきをもたらしてくれたようですね。

時代を超えて愛されるヒット曲の歌詞を手がけてきたなかにし礼さん。

もの書きとしては、命のある限り創作活動を続けたいと思っていたのではないでしょうか。

なかにし礼の闘病を支えた家族

二度目のがん治療では手術を選択したなかにし礼さん。

しかし、がんを取り除くことはできませんでした。

がんは気管支に密着しており、無理に取り除こうとすると気管支の壁が損傷する危険性があったからです。

がんが気管支を突き破る穿破が起きると、最悪の場合ほとんど即死、よくても数日しか命がもたなくなり、しかも、穿破は手術した夜に起きる可能性が高いのだそう。

なかにし礼さんは、いつそうなってもおかしくない状態でした。

手術後にこの話を聞いた娘・夏奈子さんは、失神してソファに倒れ込んだそうです。


幸いにもその夜に穿破は起きなかったものの、恐怖はずっとつきまとったことでしょう。

いつ暴発するかわからない銃を突き付けられているようなものですね。

医師からは、一日一日を大切に生きること、週単位で人生を考えることなどのアドバイスを受けていたそうで、一日が終わるたびに、家族と今日の無事を喜び合ってハイタッチをして眠りについたそうです。

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コメント

  1. 昭和のヒット歌謡人を個別に懐かしむことができました。いしだあゆみさん姉妹