亡くなった平尾昌晃さんの後任として、NHK紅白歌合戦の『蛍の光』の四代目指揮者を務める都倉俊一(とくらしゅんいち)さん。
一部では「誰?」と関心が集まっているようです。
昭和の時代、ケイこと増田恵子さんのピンク・レディーや山口百恵さんらのヒット曲を手がけ、『レッツゴーヤング』『スター誕生! 』でもおなじみだったヒットメーカーですね。
昭和世代の方なら都倉俊一さんが離婚したことは知っているかもしれませんが、その後再婚はしたのでしょうか。
また、Jリーガーの都倉賢さんは息子という噂の真相は?
家族についても迫ってみたいと思います。
都倉俊一は再婚している?
都倉俊一さんには少なくとも二度の結婚歴があることがわかっています。
最初の結婚は1974年、26歳の時でした。
お相手はテレビドラマ『プレイガール』で人気を呼んだ同い年の女優・大信田礼子さん。
美貌と抜群のスタイルの持ち主で、セクシーアクション女優といったところでしょうか。
歌手としても知られており、代表曲に都倉俊一さん作曲の『同棲時代』があります。
プロポーズを受けた大信田礼子さんは、最初は躊躇したそうです。
なぜなら、都倉俊一さんは音楽界の貴公子。
女性にモテモテだったからです。
手帳に女の連絡先がたくさんあるのが嫌だと告げると、なんと都倉俊一さんは手帳を破り、暖炉の火に投げこんでしまいました。
大信田礼子さんはこれに感激。
1974年1月、都倉俊一さんの父が赴任するブダペストで結婚式が盛大に執り行われましたが、二人の愛の炎はわずか4年で鎮火。
離婚の原因は、都倉俊一さんのマザコンぶりと、あまりのお坊ちゃま育ちによる性格の不一致でした。
当時、都倉俊一さんはピンク・レディーの曲を手がけ、爆発的なヒットを飛ばしていた売れっ子作曲家。
慰謝料を調べてみたところ、意外にも3000万円とのことでした。
都倉先生にしては少ない気がします。
大信田礼子さんとの離婚後は、2006年に再婚。
再婚相手や子供の有無については情報がなく、詳細は不明です。
ですが、再び離婚したとの報道もないので、おそらく今も婚姻関係は継続中と思われます。
Jリーガー・都倉賢は息子?家族まとめ
セレッソ大阪の都倉賢選手は都倉俊一さんの息子ではないかという声がありますが、息子ではなく甥にあたります。
都倉賢選手の父親は、都倉俊一さんの弟の都倉亮さんです。
父・都倉栄二さんは外交官でした。
初めて赴任したイスラエルで日本赤軍によるテルアビブ事件に遭遇しています。
いかにも切れ者の官僚というタイプではなく、物腰の穏やかな人物だったそうです。
1978年に退官し、翌年に久子夫人に先立たれたあとは、21年の長きにわたり一人暮らしをしていました。
2000年に85歳で死去しています。
都倉俊一さんは3人兄弟の長男で、弟に都倉裕二さんと都倉亮さんがいます。
裕二さんは一橋大学と同大学院出身の研究者。
亮さんは慶応大学卒業後に三井物産に入社。
病気により退職したあとは輸入家具販売の「都倉インターナショナル」を設立しますが、リーマンショックのあおりを受けて倒産。
以降は執筆業を中心に活動していましたが、2013年に他界。
亮さんの長女が元準ミス日本で女優の都倉伶奈さん、長男が都倉賢さんです。
都倉俊一と増田恵子・山口百恵
手がけたヒット曲は1100曲以上、レコード売上は6千万枚以上という都倉俊一さん。
芸能界にも信奉者は多いようです。
#姿月あさと さんの #昭和歌謡祭 で昭和の楽曲の #メロディーの太さ #歌詞の大胆さ に唸った。今は歌手自らが曲を書くことが多いが、昭和は #職業作曲家が曲を書き編曲をしていた。そこが大きい。#筒美京平 さん #萩田光雄 さん #都倉俊一 さん #いずみたく さん #船山基紀 さん 偉大だ!#石井一孝 pic.twitter.com/uJS0OzzCsP
— 石井一孝&STAFF (@Ishii_Kazutaka) 2019年5月8日
一世を風靡したピンク・レディーの増田惠子さんが、ユニット名の命名秘話を明かしています。
それは、「みかん箱」「ちゃっきり娘」などの候補の中、「白い風船」に決まりかけた時のことでした。
都倉俊一さんが、ピンク・レディーだと一言。
複数形でないのは、カクテルのピンク・レディーから名前を拝借したためだったのですね。
もし「白い風船」のままだったら、自分はここにいなかったと語る増田恵子さん。
ちなみに『モンスター』の冒頭で聞こえる不気味な笑い声は、都倉俊一さんの声に音声加工を施したものだそう。
そして、都倉俊一さんといえば山口百恵さんとの師弟関係にも触れておきたいところです。
宇崎竜童さんと阿木燿子さんによる楽曲がよく知られていますが、デビュー曲『としごろ』をはじめとする初期の楽曲のほとんどは都倉俊一さんと千家和也さんによるものでした。
ピアノでレッスンをつけると音を上げて泣き出す歌手が多い中、一人だけ涙を見せなかったのが山口百恵さんだったそうです。
信念があったからこそトップスターになれ、人気絶頂のときに引退できたのでしょうね。
80年代以降は海外へ拠点を広げ、ミュージカルを中心に音楽活動を展開中の都倉俊一さん。
昭和後期の歌謡界を語るうえで欠かせない重要人物です。
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