子役出身だと大成しないというジンクスを破った高峰秀子(たかみね ひでこ)さん。
自身の成長に合わせて演技も成長した結果、どんな役柄も演じられる名女優となりました。
高峰秀子は養母を憎んでいた?
祖父が北海道函館市で蕎麦料亭に劇場、カフェを経営する権力者だったという高峰秀子さん。
恵まれた生活をしていましたが4歳で母が亡くなってしまったことで伯母の養女に。
養母となった伯母は17歳で活弁士と再婚し、「高峰秀子」という名前で女活弁士として活動していたこともありました。
ですが、養父も養母も活弁士は廃業しており、養父は旅一座の興行ブローカー、養母は針仕事の内職で生計を立てていたそうです。
実は「高峰秀子」という名前は芸名で本名は平山秀子といいます。
元々は伯母の芸名だった「高峰秀子」を受け継いだ形となっています。
暮らしていた家の階下に俳優の友人がいた縁で蒲田撮影所を見学に行った高峰秀子さん。
その時に偶然、映画「母」の子役オーディションが行われていたそうです。
半ば強制的に養父にオーディションを受けさせられた高峰秀子さんは何と合格。
ヒロインを演じた川田芳子さんの娘役で映画出演が決まりました。
演技の勉強もしていないのにオーディションに合格してしまう程、卓越した演技力を持つ高峰秀子さん。
たちまち人気子役となりその後も多くの映画に出演。
その後も、今の芸能界でも囁かれる「子役は大成しない」と言うジンクスを破り、子役から娘役、大人の女優と見事に成長しています。
高峰秀子さんは映画界が斜陽となっても舞台などに殆ど出演せずに55歳で引退。
映画でデビューし映画で引退した
と言われ日本映画の歴史において最高の女優と評価されています。
このように常に仕事は順調だった高峰秀子さんですが私生活はかなり大変だったようです。
函館大火で破産した祖父とその家族が高峰秀子さんを頼るために上京。
高峰秀子さんは家を借りるだけでなく生活費も工面していたそうです。
また、高峰秀子さんが多忙のあまり学校に通うことが出来なかった一方で親戚の子供達は高峰秀子さんの稼ぎで学校に通っていました。
高峰秀子さんの稼ぎをあてにしていたのは養母も同じ。
1本100万円というギャラで何本もの映画に出演していた高峰秀子さんですが、結婚して自立する時には残金が6万円しかなかったそうです。
高峰秀子さんがいかに寄生されていたかが良くわかります。
そんな養母だったため、高峰秀子さんに養母を慕う気持ちはなく養母のことは「デブ」と呼んでいたそうです。
これは高峰秀子さんの自叙伝「わたしの渡世日記」からも分かります。
養母が高峰秀子さんに辛くあたっていたことは周知の事実だったようで養母が亡くなった時には
お袋さん、死んだんだってなあ、よかったなあ
死んだんやてなあ、おめでとう!よかったやないか
と著名人から言われたそうです。
養母がいなければ高峰秀子さんが女優として成功することはなかったでしょう。
とはいえ、そんな恩も忘れるほど養母は酷い人だったんですね。
高峰秀子の子供は養女?
1955年2月25日に映画監督の松山善三さんと結婚した高峰秀子さん。
映画監督と女優の二人が知り合ったきっかけはもちろん映画。
高峰秀子さんが主演した1954年公開の映画「二十四の瞳」で松山善三さんは助監督をしていました。
この撮影が縁で交際が始まったようです。
当時の芸能界を代表するスターの結婚がゴシップとなってしまうことを嫌った映画監督の木下惠介さん。
松竹の木下ですが、うちの松山君と高峰秀子を結婚させますので取材に来てください
と関係各所に連絡し記者会見が行われました。
この会見が芸能人の結婚記者会見の始まりだと言われています。
辛い養母との生活に別れを告げ夫と仲睦まじく暮らしていた高峰秀子さん。
結婚後も芸能活動を続けるためか、子供は作らなかったそうです。
ですが高峰秀子さんは2009年にエッセイストの斎藤明美さんを養女にしています。
この時、高峰秀子さんは85歳、斎藤明美さんは53歳です。
津田塾大学を卒業後、高校の教師、構成作家を経て「週刊文春」の記者を務めていた斎藤明美さん。
1999年には「青々と」で日本海文学大賞の奨励賞を受賞。
養女となってからは高峰秀子さんに関するエッセイを多く執筆しています。
養子縁組に至った経緯は明らかになっていませんが、気の合う関係だったことは間違いないでしょう。
高峰秀子の自宅は麻布にあった?
映画界きってのおしどり夫婦として知られた松山善三さんと高峰秀子さん。
結婚後は麻布十番にある洋館のような自宅で暮らしていたようです。
元々はイギリス人が住んでいたそうで高峰秀子さんは500万円で買取。
結婚後も多忙だった高峰秀子さんは豪邸に建て替え多くの使用人を抱えていたそうです。
晩年になると自宅を小さく立て替えたそうですが、それでも3階建てでガレージには愛車のジャガー。
小さくしたとはいえ、流石はスターの邸宅といったところでしょうか。
女優を引退した後の高峰秀子さん。
引退しても自堕落な生活をすることなく素敵な自宅で早寝早起きの規則正しい生活をしていたそうです。
高峰秀子の死因は?
高峰秀子さんが亡くなったのは2010年12月28日。
死因は肺癌でした。
高峰秀子さんが亡くなる1年前に養女となった斎藤明美さん。
もしかすると養女となる時には高峰秀子さんの先が長くないことを知っていたのかもしれません。
日本映画界で一時代を築いた高峰秀子さんなので莫大な遺産があったはず。
養女とはいえ相続する権利があるのは斎藤明美さん。
ですが斎藤明美さんは遺産を映画「二十四の瞳」のロケ地である香川県小豆町に寄贈しています。
これは松山善三さんと高峰秀子さんの遺志によるものだそうです。
松山善三さんと高峰秀子さんを結び付けてくれた映画のロケ地ということで思い入れが強かったのでしょう。
寄付金だけでなく高峰秀子さんが趣味であつめた骨とう品やポスター、台本なども寄贈されたそうです。
亡くなってからも日本映画界に貢献したと言える高峰秀子さん。
高峰秀子さんのように身も心も引き際も見事な女優は二度と出てこないかもしれません。
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