小津安二郎の死因とお墓は?愛した鎌倉&妻をもたず生涯独身の理由とは

日本映画には世界的に評価の高い多くの名作があります。

ここでは黒澤明監督と並び称されるレジェンド、小津安二郎(おづ やすじろう)監督の私生活にスポットを当て、晩年を過ごした鎌倉や独身を貫いた理由、その死について迫ります。

小津安二郎の死因と墓

1963年、NHKのドラマの脚本を書きおろした小津監督は首筋に違和感を覚えます。

腫れ物ができていました。


4月に国立がんセンターで手術を行い、コバルト・ラジウム療法といったがん治療を施します。

いったん退院はしたものの、10月に再び東京医科歯科大学医学部附属病院に入院。

この時点でがんがかなり進行していました。

佐田啓二(中井貴一さんの父)さんが娘の喜恵子さんとお見舞いに訪れたときは、幼い喜恵子さんと「スーダラ節」を歌っていたそうです。

しかし病状は好転せず、自身の誕生日である12月12日に息を引き取りました。

この日は小津監督が還暦を迎えた日。

遺体はその夜に北鎌倉の自宅に帰り、駆けつけた原節子さんは小津邸の玄関で泣き崩れたといわれています。

小津監督のお墓は晩年を過ごした北鎌倉の円覚寺にあり、シンプルな四角の墓石には「無」の一文字が刻まれています。

生きている間の出来事は、やがては全て無になるという意味でしょうか。

円覚寺は『晩春』のロケ地としても有名です。

小津安二郎の鎌倉

鎌倉は小津監督が晩年を過ごしただけでなく、小津作品にとってもおなじみの地ですね。

『晩春』にも北鎌倉のノスタルジックな風景が登場します。

また、食通の監督が足しげく通った精進料理店・鉢の木や、脚本の執筆に使った定宿の茅ケ崎館。

明治32年創業の茅ケ崎館には、小津監督が火鉢や七輪を持ち込んで自炊をした部屋が今も残っているそうです。

4代目館主・森勝行さんが回想します。

「庭の正面から、海の方へ散歩に向かう小津安二郎監督のお姿が、ついこの間のように浮かんできます。

昭和16年の小津作品『戸田家の兄妹』に鵠沼の別荘シーンが描かれています。

この頃から茅ケ崎館での執筆も本格的に始まり、監督と湘南の縁も深まっていきます。

深川出身の小津監督も、晩年は鎌倉に居を構え、敬愛する文豪との交流を楽しまれています」

原節子さんも東京の自宅を引き払い、鎌倉を終生の地としました。

妻をもたず、独身を通した小津安二郎

小津監督が生涯を通じて結婚しなかった理由については様々な見方がありますが、やはり根強くささやかれるのは原節子さんの存在です。

名作を次々と生み出したこのコンビにはロマンスの噂がついて回りました。

小津監督自身も「このところ原節子との結婚の噂しきりなり」と日記に記しています。

『晩春』のプロデューサー、山本武さんはこう証言します。

原節子と小津さんの出会いは印象的だった。

原さんを見たとたん、ポーッと小津さんの頬が赤く染まった。

『節ちゃんて美人だなあ』。

小津さんはあとでそういった。

このとき、小津監督は46歳、原節子さんは29歳。


二人が初めて組んだ『晩春』の頃から、小津監督が原節子さんに好意を抱いていたとしても不思議ではありません。

しかし、小津監督は戦中派で古いタイプの人間。

自作品に起用する年の離れた女優との結婚を考えていたかどうかはわかりません。

一方の原節子さんはどうだったのでしょうか。

監督の死後、原さんをスクリーンで観ることはできなくなってしまいました。

そして原さんも生涯独身を貫いています。

この大女優の生涯をたどってみると、やはり最大の謎は突然の引退です。

引退声明を出さなかったこともあり、当時は様々な憶測が飛び交ったそうです。

『殉愛――原節子と小津安二郎』の著者・西村雄一郎さんは、二人が惹かれ合いながらも結ばれなかった理由について分析しています。

二人の関係を「忍ぶ恋」ととらえれば、原節子のある種の覚悟が理解できる。

原は小津が亡くなった時点で、小津への愛を貫徹する意志を固めたのではないだろうか。

その意志は引退という形をとった。

映画にも出ず、世間にも姿を見せず、まるで隔離された場所でひっそりと生きる尼僧のように。

その意味で、原節子の小津への愛は、「純愛」というより、「殉愛」だったということができよう。

もちろん、小津の原節子に対する愛情も「殉愛」だったといえる。

独身を貫き、可能だったにもかかわらず、他の女性と結婚することは生涯なかった。

亡くなる前年の1962年5月、小津監督は「原に酔余(酔って)電話する」と日記に記しています。

ほろ酔い気分で人恋しくなったのでしょうか。

そんなとき、声を聞きたくなるのが原節子さんだったのですね。


重大なことは道徳に従う、芸術のことは自分に従うと言った小津安二郎監督。

生涯に54本の映画を撮り、60歳の誕生日にがんとの闘いに力尽きました。

もし小津監督が今生きていたら、誰を起用し、どんな映画を作っていたのでしょうね。

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