大瀧詠一の死亡に衝撃。その死因とは。息子や娘ら家族が原盤管理

日本のポップス史に大きな足跡を残し、今なおJ-POPシーンに影響を与え続ける大瀧詠一(おおたきえいいち)さん。

ソロアルバム『ロング・バケーション』はミリオンセラーを記録し、国産CD第一号になりました。

ドラマ『ラヴ・ジェネレーション』の主題歌『幸せな結末』での復活はファンを喜ばせてくれましたね。

しかし、2013年に突然の訃報、音楽とともに歩んだ人生に幕を閉じました。

今回は当時の死亡記事を振り返りながら、大瀧詠一さんの死因や息子・娘など家族についてまとめます。

大瀧詠一のプロフィール

本名:大瀧榮一

生年月日:1948年7月28日

出身地: 岩手県

最終学歴:早稲田大学第二文学部中退

所属事務所:ザ・ナイアガラ・エンタープライズ(過去)

大瀧詠一の死因

伝説のフォークロックバンド・はっぴいえんどは、21歳の大瀧詠一さんが細野晴臣さん、松本隆さん、鈴木茂さんと結成した、ロックを日本語で歌う革新的なバンドでした。

解散後、大瀧詠一さんはソロとして始動し、ナイアガラ・レーベルを設立。

アルバムを発表するかたわら、山下達郎さんが在籍したシュガーベイブやラッツ&スターのプロデュースも手がけます。


森進一さんの『冬のリヴィエラ』、松田聖子さんの『風立ちぬ』、小林旭さんの『熱き心に』、稲垣潤一さんの『バチェラーガール』、ラッツ&スターの『夢で逢えたら』『Tシャツに口紅』などの名曲は誰でも一度は耳にしたことがあるでしょう。

大瀧詠一さんが最晩年まで住んでいた東京都西多摩郡瑞穂町は狭山丘陵の西に位置し、南には横田基地があることから、かつての米軍ハウスが残っています。

その米軍住宅を自宅兼スタジオに改造して数多くのヒット曲を世に送り出しました。

2013年12月30日、大瀧詠一さんはその瑞穂町の自宅で倒れ、救急搬送されます。

死因は解離性動脈瘤でした。

実は、亡くなる1週間前に、『風邪』といって2日ほど寝込んだとのことですね。

しかし、その症状は風邪ではなく、なんと足腰に力が入らない状態だったといいます。

そんな状況のなかで、床を這うようにして移動していたそうですね。

やがて、『俺、脳が疲れたよ』と漏らした大瀧詠一さん。

自覚症状なのか、仕事が思うようにならないことを例えたのか、とにかく体もほぼ動かず、頭もとなるとその重篤さがうかがえます。

とはいえ、ここから2、3日後には体調も少し回復し、日常生活のなかで食事も摂れたのだそうです。

亡くなる当日も、実は仕事のためにスタジオへ行っていたというのですから、少し安堵すらしまうような回復ぶりですよね。

しかし、やはり体は無理をしていたのでしょうか、夕飯前になるとその時はやってきました。

妻の静子さんは、大瀧詠一さんのためにりんごを剥いていたそうです。

すると、突然、彼の大きな声が聞こえたといいます。


驚いて駆けつけたところ、椅子にぐったりとした大瀧詠一さんを発見、すでに顔面にはチアノーゼが来ていたとのことです。

かなり危険な状態であることは、誰の目にも明らかでしょう。

心臓マッサージを繰り返し、救急車の到着を待つも、息を吹き返すことはなかったそうです。

しかし、大瀧詠一さんが最期に叫んだその言葉が実にカッコイイのです。

それは、『ママ、ありがとう』でした。

おそらく、死を悟るほどの強い苦しみのなかで、咄嗟にその言葉が出たのでしょう。

もしかすると、普通ならば『うう…』とか『あー』といった叫び声しか出ないかもしれません。

それでも、まさに死力を尽くして最愛の妻への感謝を伝えたと考えると、その幕閉じの仕方には憧れさえ覚えてしまいそうですよね。

もちろん、まだまだ長生きして頂きたかったですし、ご本人としても無念はあったとは思いますが…。

大瀧詠一さんの命を奪った解離性大動脈瘤とは、大動脈の壁に縦の裂け目ができて、血管が膨らんでしまう疾患なのだそうです。

想像するだけでも恐ろしいですが、一度の発症が突然死につながるケースも多いとのことですね。

芸能界でも、笑福亭笑瓶さんや加藤茶さんが発症、前者はゴルフのプレイ中に倒れ、後者は違和感を自覚してから半月ほど間があって病院を受診して発覚したそうです。

加藤茶さんのケースを考えると、それでも助かっているのに対し、大瀧詠一さんは1週間ほどの違和感で還らぬ人となりました。

その辺りは、症状の具合や、個人差もあるのでしょう。

そもそも、大動脈は三層からなっており、大動脈解離は、中膜がもろくなっていることが原因のようです。

とはいえ、なぜそんなことが起きるのかというと、動脈硬化につながる高血圧が諸悪の根源という見方があるようですね。

となると、そのまた原因となる生活習慣や、加齢、ストレス、肥満というところに行き当たるようです。

この怖い症状は、特別なものではなく、加齢とともに誰もが気をつけなければならないのかもしれませんね。

大瀧詠一死亡のニュースに音楽界激震!

65歳での突然の訃報は音楽界に大きな衝撃を与え、多くのアーティストが追悼コメントを発表。

佐野元春さんは、音楽界から大きな星が消えたとしつつも、北斗七星が如く、大瀧詠一さんが空から見守ってくれている旨をコメントしていました。

また、内田裕也さんも自身の好みとは相容れないとしながらも、それでいて、評価されるべきジャンルであるという旨で大瀧詠一さんの音楽をたたえていましたね。

そして、泉谷しげるさんや木村拓哉さんも『感謝しかない』と口を揃えたように、あらゆる音楽人、俳優から感謝されていました。

亡くなられて、改めてその存在の大きさが伝わってきますね。

葬儀は年が明けた1月4日に営まれ、式場には未発表だった本人歌唱バージョンの『夢で逢えたら』が流されました。

柩ははっぴいえんどのメンバーだった細野晴臣さん、松本隆さん、鈴木茂さんたちによって抱えられたとのことです。

大瀧詠一の息子や娘の夫ら家族が原盤管理を継承!

ナイアガラ・レーベルは、大滝詠一さんがが生前主宰していたレコードレーベルです。

1974年には、自作の原盤を管理することを目的にナイアガラ・エンタープライズを設立。

ナイアガラという名の由来は、尊敬していたフィル・スペクターのレコードレーベルが自分の名前をもじった「フィレス」であったため、それを真似たそうです。


「大瀧=大きい滝」ということで、ナイアガラの滝なのですね。

2014年12月3日に発売された『Best Always』は、大滝詠一さんにとっては初となる純粋な意味でのソロ・ベストアルバム。

過去のベストアルバムはいずれも変則的な作品集でした。

なにより注目を集めたのは、最も多くの歌手がカバーした名曲『夢で逢えたら』の本人歌唱バージョンです。

葬儀で遺族が流し、参列者を驚かせた音源でした。

と関係者は語っています。

ベストアルバム制作にあたっては、娘婿で音楽評論家・音楽プロデューサーの坂口修さんや、長男の大瀧詞巧(おおたきしこう)さんなど大瀧家の親族が監修したそうです。

アルバム『NIAGARA MOON』に収録されている『三文ソング』のエンディングで、「サッチモォ、アハッ!」と言っている子供の声は、当時まだ2歳の大瀧詞巧さんです。

大瀧さんの娘や息子・詞巧さんについては情報がほとんどなく、詳細はわかりませんが、ナイアガラ・エンタープライズは娘婿の坂口修さんが継承したことが明らかになっています。


大瀧詠一さんは、30代以下の世代にとっては伝説のミュージシャンというイメージかもしれませんね。

けれどもその名曲たちは、けっして歴史に消え去ることなく人々に愛聴され続けていくのでしょう。

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