「木綿のハンカチーフ」「ルビーの指環」「赤いスイートピー」など、同時代を過ごした人なら誰もが口ずさめる名曲を手がけてきた松本隆(まつもとたかし)さん。
作詞家として広く知られていますが、70年代には細野晴臣さん、大滝詠一さんらと結成したロックバンド、はっぴいえんどに在籍していました。
この記事では、松本隆さんの生き方や仕事に影響を与えた生い立ちや家族のこと、嫁のこと、移り住んだ神戸の家(マンション)のことを中心にまとめます。
松本隆の家族・生い立ちについて
慶応義塾大学在学中の20歳の時に細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんとはっぴいえんどを結成した松本隆さん。
はっぴいえんどは1970年にデビューし、「夏なんです」「風をあつめて」などのヒット曲を生みますが、2年後に解散。
解散後、松本隆さんは作詞活動に専念します。
これまで2100曲以上の楽曲を400組以上のアーティストに提供し、130曲以上がオリコントップ10入り、うち50曲以上が1位を獲得。
そんな松本隆さんは1949年7月16日、東京の青山に長男として誕生しました。
命名は漢学者だった大叔父。
生家は高台にあり、天気のよい日には富士山が望めたそうです。
けれども中学生の時に、東京オリンピックの都市計画で立ち退きを余儀なくされることに。
高崎出身の父親は当時の大蔵省の官僚で、母親は伊香保にある写真館の娘。
少年時代、春、夏、冬の休みは母親の実家で過ごすのが恒例だった松本隆さん。
はっぴいえんどの「夏なんです」の原風景は、子供の頃の伊香保の鎮守の森や石段なのかもしれませんね。
伊香保の祖父は、明治30年代から3代続く写真館を営んでおり、町の有力者でもありました。
伊香保の家には蓄音機もあって、すでに音楽に関心を寄せていた松本少年は、映画音楽やクラシック音楽をこの家で聴いていたとのこと。
1歳年下の弟の裕さんは今はレコーディングエンジニアとして活躍していますが、以前はほうむめいどというバンドのドラマーでした。
妹の由美子さんは生まれつき体が弱く、走ることも泳ぐことも医者から禁じられていました。
松本隆さんは子供心に長男を自覚するようになったといいます。
通学時には妹のランドセルも持って、一緒に学校に通ったそうです。
しかし1980年、由美子さんは26歳の若さで帰らぬ人に。
大瀧詠一さんに頼まれて書いた「君は天然色」は明るい曲調のポップスですが、実はこの歌詞は由美子さんを偲んで書かれたもの。
「思い出はモノクローム 色を点けてくれ もう一度そばに来て」というフレーズがありますが、これは、病院で由美子さんを看取ったあと、街が色を失い、まるでモノクロームのように見えたことを写し取った歌詞なのだそう。
妹のおかげで、子供の頃から生と死の境界線に敏感になっていたという松本隆さん。
詞が優しいといわれる理由はそれがベースになっているのではないかと自ら分析しています。
松本隆が在籍した伝説のバンド、はっぴいえんどとは?
はっぴいえんどというと、「日本語ロック論争」のことに触れないわけにはいきませんね。
70年代初頭、音楽雑誌などでは「日本語のロックは可能か」という問題が議論の的となり、以降の日本の音楽シーンに多大な影響を及ぼすことになりました。
松本隆さんは、今度こそ日本語の歌詞でバンドをやりたいと年上の細野晴臣さんと大瀧詠一さんを説得。
のちにインタビューで語ったところによると、当時は冗談抜きで第一言語が英語になりそうな勢いがあったそうです。
例えばシンガポールなどは英語を選び、自分たちの言語を放棄しています。
日本もそうなるのではないかという危機感があったのでしょう。
確かに、その国の歌謡曲が全部英語で歌われるようになったら、事実上第一言語は英語といえるでしょう。
松本隆さんが恐れたのは、もしそういう状況になったら、千数百年の歴史を持つ日本文化も失われるということでした。
しかし現実の音楽シーンは英語でロックを歌いたいミュージシャンであふれていて、英語至上主義の風潮すらあったのです。
はっぴいえんどは日本語のロックという先駆的な挑戦をして、受け入れられました。
これにより、日本のロックを守ることができたのではないかと松本隆さんは語っています。
J-POPもここから生まれたことになりますから、今の音楽シーンも守られたことになりますね。
松本隆の嫁は?
松本隆さんには一度の離婚歴があり、2023年現在は再婚した奥さんと暮らしています。
最初の結婚は1971年、まだ21歳の時でした。
初婚の奥さんとの間には、娘さんが1人います。
離婚後に再婚した嫁との間には2人の娘がいるそうです。
すでに娘さんたちは母親になっているため、松本隆さんには孫がいることになりますね。
嫁については、近所にB’zの稲葉浩志さんの自宅があったせいで、名字が同じ松本孝弘さんの嫁とよく間違えられたとつぶやいていることから、かなり年下の嫁かもしれません。
ちなみに松本隆さんは2023年は74歳、松本孝弘さんは62歳になる年です。
松本隆が東京から神戸に移り住んだ理由は?
生まれ育った青山をはじめとして、多感な時期を過ごした乃木坂、麻布界隈を「風街」と名付けた松本隆さん。
はっぴいえんど時代のアルバム『風街ろまん』でも、失われつつある古き良き東京の情景が「風街」として描かれています。
現在は、そんな「風街」を離れ、神戸に居を、京都に仕事場を構えています。
その理由として、旧国立競技場の取り壊しや築地市場移転を例に挙げ、東京に息苦しさを覚え、未来を感じられなくなったと述べています。
神戸は震災で一度壊れ、悲劇を経験したにもかかわらず、人々の心に余裕があるのだとか。
京都も同じで、歴史上何度も地獄を見ているにもかかわらず、「残す」ということの大切さをわかっている街だと言います。
東京の欠点は「残す」文化がなく、壊して発展を繰り返して、そのたびに利権が動いて手に負えなくなっていくところと断言。
「風街」というのは、壊れることがない東京への願いをこめたネーミングでもあったそうです。
東京で生まれ育った松本隆さんにとっては残念なことでしょう。
夢を抱いた若者が東京を目指すのはお決まりですが、地方都市にもすばらしい文化や土壌があることを忘れてはいけませんね。
松本隆の家は神戸のマンション
海と山に恵まれた神戸に家を、友達の多い京都に仕事場を構えた松本隆さん。
神戸の自宅は免震のタワーマンションで、部屋からは神戸港が一望できる立地。
窓を開けると海風が入り、山側の窓からは六甲の風。
風がよく通り、夏でも快適だそうです。
凪の時間も決まっていて、風が止んで急に暑くなるのだとか。
東京では味わえない神戸の風がいたくお気に入りのようです。
松本隆さんは車で東灘や芦屋へも足をのばし、カフェ、レストラン、ベーカリー、中華料理店などを巡って神戸ライフを楽しんでいるようです。
2019年4月にはトリビュートライブ「松本隆の世界 風街神戸」を神戸で開催。
地元アーティストとの交流を深め、地方から発信をすることで、東京一極集中の音楽シーンに新たな風を吹き込むことになるかもしれません。
70年代、日本語のロックを提唱して、欧米のモノマネではない音楽の創作に力を注いできた松本隆さん。
生活環境が創作活動に及ぼす影響は大きいと思います。
ベストな環境に身を置いて、これからも名作を作り続けてほしいですね。
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コメント
そうですね。
はっぴぃえんど しばらくして お子さんできて
食べていけないから解散かも…
由美子さんのことは、
渋谷の街が色なしで写ったらしい
この唄は 気に入ってます
でも最初のご家族の話をしたがらない
人の家族だが 前妻子が不幸なら
いくら 作詞の先生でも 人として尊敬出来ない
違うことを祈るが…
京都で家探して無いから たまたま神戸にあった
どれが真実だか?
はっぴぃえんど を語ると
鈴木茂さんが直ぐに忘れ去られる
ユーミンのデビューアルバムも
彼は非常に大事な仕事をしている
松本隆は 鈴木茂の話は あまりしない
!