中西 太(なかにし ふとし)さんは日本球界を代表する大打者として活躍しました。
現役時代は特大ホームランを数多く放ち、引退後は指導者としても活躍しましたが、2023年に亡くなっています。
今回は中西太さんの自宅や、あまり語られない家族について見ていきます。
門下生たちの活躍や現役時代の伝説、死因についても一緒に紹介していきましょう。
中西太のプロフィール
生年月日: 1933年4月11日
没年月日: 2023年5月11日(90歳没)
身長: 174cm
出身地: 香川県高松市
最終学歴: 香川県高松第一中学校(現:高松第一高等学校)
所属球団(選手): 西鉄ライオンズ
所属球団(監督・コーチ): 西鉄ライオンズ~オリックス・ブルーウェーブ
中西太の自宅は渋谷区
詳しい住所などはわかっていない中西太さんですが、自宅の場所が渋谷区であることは判明しています。
新聞などで紹介されることもあるので、知っている人も多いのではないでしょうか。
引っ越しなどの情報はないので、ずっと渋谷に住んでいたもの思われます。
この自宅にまつわるエピソードとしては、2018年の全国高校野球第100回大会で行われた「レジェンド始球式」のものがありますね。
レジェンド始球式、中西太さん85歳か、感動。 pic.twitter.com/7rfZowGozF
— NORI🏟️ (@ny21southosaka) August 17, 2018
この日のために、自宅のバスルームでトレーニングをしていたことを明かしていました。
専門的なトレーニングルームなど使わなくても、自宅でできることはいろいろあるみたいです。
それにしても、80代でしっかりトレーニングとは、とてもパワフルなエピソードですね。
中西太の妻は三原脩の娘
昭和を代表する名将・三原脩さんと中西太さんが家族になっていたそうです。
二人は西鉄ライオンズの監督と選手の関係でしたが、1956年に三原脩さんの長女(敏子さん)と結婚して三原家に婿入りをしていました。
どうでもいいが、三原脩の娘さんは超美人(のちに中西太と結婚)。 pic.twitter.com/uxzSjsvf6j
— キタトシオ (@kitatoshio1982) June 20, 2022
つまり、戸籍上は中西太ではなく”三原太”と言うことになりますね。
義理を含めた親子でプロ野球の監督を務めた例は無く、しかも優勝しているのは前代未聞です。
子供について情報はありませんが、子供がプロ野球に入っていない事は間違いないでしょうね。
中西太の門下生が大活躍
現役引退後は、コーチとして活躍した中西太さん。
若松勉さんや八重樫幸雄さん、岩村明憲さんなど、数多くの選手たちを育ててきました。
野球解説者の金村義明さんは、門下生たちの活躍について「ヤクルトの強さは”中西太”さん」と語ったことがあります。
自身も教え子である金村さんは、丸めた新聞紙を打って動き回る中西さんに当てるという、少し変わったトレーニングの経験があるのだとか。
一見すると風変わりですが、門下生が素晴らしい活躍をしているとなれば、その効果は確かなのでしょう。
ちなみに、たくさんの教え子たちの中には、イチロー選手の名前もあります。
そういやイチローって仰木彬、中西太の門下生だったな。三原脩→仰木&中西→イチローの系譜。 pic.twitter.com/rxkpAc0oRH
— えふしれ (@botankirei) June 17, 2016
当時の中西さんは、基本をきっちり守ることなどを重点的に教えたそうです。
どんなに才能のある選手でも、基本どおりのプレーを丁寧にやらないと、よい成長はできないのかもしれませんね。
中西太のホームランは伝説級
中西太さんの伝説級と呼ばれるホームランについて見て行きましょう。
全盛期が1950年代半ばだったので鮮明な映像は残っていませんでしたが、数少ない当時の動画から中西太さんのホームランの凄さを見てみようと思います。
※最初は音声がありませんが、途中から音が出るので音量に注意して下さい。
時代が古くて白黒映像なのでイマイチ分かりにくいのが残念です。
中西太さんのホームランが伝説級と言われる点は”飛距離”と”打球の速さと角度”。
最も語り継がれているのは1953年8月29日に平和台野球場でおこなわれた対大映戦で、林義一さんから打って場外の福岡城跡まで届いたと言われる特大ホームランです。
その飛距離は190メートル近くあったそうですが、一般的には162メートルと記録されています。
中西太さんのホームランの凄いところは飛距離だけでなく”打球の角度と速度”と言われており、打った瞬間はライナー性の低い打球でフェンス直撃だと思われるそうです。
先に紹介した場外ホームランもセンター方向へのライナーで、低い角度から打球がグングン伸びてバックスクリーンの9メートル上を飛んで行きました。
投手の林義一さんが捕れると思ってグローブを出すほど低い弾道だったと振り返っています。
最近は打った瞬間にホームランだと分かる”山なり弾道”がほとんどで、中西太さんのような強烈なライナー性の当たりを放つ打者は少なくなりました。
そのスイングは”相手のベンチまで素振りの音が聞こえた”と伝説になっており、81歳時のスイングでも年齢を感じさせないような素振りを披露していました。
81歳でこのスイング・・まさに怪童と呼ぶにふさわしい名選手だと再認識しました。
中西太の死因は心不全
中西さんの訃報が流れたのは、2023年5月18のこと。
11日に心不全で亡くなっていたことが報道されました。
怪童中西太 心不全で亡くなる。
心からご冥福をお祈りします。
中西太さんのイメージは、やはり!怪童中西、名コーチですかな、安らか天国で、稲尾さんと仰木さんとお酒飲みながら、ホークス&ジャイアンツそして、今の日本プロ野球を見てください。そちらには、もう1人野村克也さんもいるので仲良く。— 💛💛 慶蔵😺😺くん (@keizo5959) May 18, 2023
5月11日は中西さんの誕生日であり、ちょうど90歳でした。
何事もなければ卒寿のお祝いがあったと思われますが、亡くなったのは11日未明。
日付が11日になったあと、まだ夜が明けないうちに旅立ってしまったようです。
11日にひっそりと卒寿をお祝いしていたファンは、亡くなっていたことをあとから知り、驚いたかもしれませんね。
以前から痩せたと心配されていた
訃報を知った人の中には、「ついに来てしまった」と感じた人もいたのではないでしょうか。
90歳になる高齢者なら心配になるのもわかりますが、見た目の影響も考えられます。
中西さんは、以前から痩せた姿が話題になっていました。
中西太さん痩せたなぁ。。。
— ゆずまき。2023シーズン現地1勝2敗。 (@moerolions) November 27, 2018
年齢の都合だろうけど中西太さん痩せたな。#seibulions
— ぢろ痴 (@jirochi_neko) April 2, 2019
元気そうではありましたが、すっかり痩せてしまった様子から体調を心配する人も多かったことでしょう。
痩せる原因としては、やはり病気を思い浮かべてしまうもの。
過去には甲状腺がんを患っていましたし、糖尿病の話もありましたね。
中西太。。。久々に観た。79歳!随分と痩せられて糖尿病の悪化だろうか。。。心配です。
— ほいちゃん (@hoichan_hachan) April 27, 2012
高齢で病気もあるなら、不安になる気持ちはわかります。
2020年代に入ってからは、90歳が近いこともあり、余計に心配だった人もいるでしょう。
そんな人たちは、ある意味で少し心の準備ができていたのかもしれません。
心不全以外の死因は発表されていない
中西さんが痩せていたことは、死因の話題にも影響をおよぼした可能性があります。
ネット上には、何か別の病気で入院していたという噂も出ていたようです。
5月11日に中西太さんが亡くなっていたそうです。90歳、病気で病院で入院治療をしていたけど完治せず亡くなったそうです。
香川県出身、高松一高時代に高校野球で怪童と呼ばれてプロ野球入り、監督時代には名選手を育てた名選手から名監督への王道を築き上げたのが有名ですね— miekojan (@mietaros119) May 18, 2023
痩せた姿を以前から知っていた人は、闘病中という噂を聞き、「やはり」と納得してしまったかもしれません。
ですが報道によれば、中西さんが亡くなったのは都内の自宅。
入院先の病院ではありません。
SNSでもそうした情報は話題になっていたので、入院中でなかったことは知っている人も多いと思われます。
プロ野球西鉄(現埼玉西武)の強打者として黄金期を支え、選手兼任で監督も務めた中西太さんが今月11日に都内の自宅で心不全のため死去していたことが本日分かった。90歳。
— たてやかん (@ht38hahaha) May 18, 2023
また、死因として心不全以外の病気が発表された事実もありません。
となると、別の病気による入院説は間違いと考えてよさそうです。
公表されたとおり、中西さんは心不全で亡くなったものと思われます。
通算成績が伸びなかった理由は怪我?
中西太さんの通算成績がそれほど伸びなかった理由について見ていきます。
1952年に西鉄ライオンズ入団し、新人ながらレギュラー選手として走攻守で存在感を放ちます。
・1952 (打率.281 本塁打12 打点65 盗塁16) ※新人王獲得
・1953 (打率.314 本塁打36 打点86 盗塁36)
二年目には早くも3割・30本・30盗塁のトリプルスリーを達成しますが、中西太さんは二冠王まではあったものの”三冠王”に輝いたことはありませんでした。
実は53年・55~56年・58年と4回も二冠王になりましたが、三冠王をわずかな差で逃しています。
また、1959年の試合中に利き手を負傷、1960年には左手首に腱鞘炎を発症してしまいました。
これによってスタメンではなく代打として出場する機会が増え、入団7年間で190本累打を記録する一方、怪我をして以降の11年間は54本塁打と低迷しています。
主な通算成績は打率が.307で11位、長打率が.553で7位、本塁打は244本で67位でした。
怪我が無ければ倍の”500本塁打も可能だった”と思わせるほどの才能の持ち主でした。
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コメント
中西太さんの両腕に弟と私でぶら下がった写真がありました。小学2年生と幼稚園生だったと思います。今は見つけ出せませんが。とても優しい方です。今もお元気そうで嬉しいです。