ムッシュこと吉田 義男(よしだ よしお)さんは阪神を代表する名選手であり名監督として愛されています。
プロでは美しい守備で人気になりましたが、生い立ちは厳しい環境だったと語っていました。
今回は吉田義男さんの牛若丸と呼ばれた守備や野村克也さんの評価などを見て行きましょう。
吉田義男のプロフィール
生年月日: 1933年7月26日
身長: 165cm
出身地: 京都府京都市中京区
最終学歴: 立命館大学(中退)
所属球団: 阪神タイガース(最終所属)
吉田義男の守備は牛若丸と呼ばれている?
まずは吉田義男さんの「牛若丸」と呼ばれる美しい守備について見て行きます。
ご存知の通り牛若丸とは歴史上の人物・源義経の幼名で、武蔵坊弁慶との対戦で見せた”軽やかな身のこなし”は演劇やドラマで何度も取り上げられている名シーンです。
舞台となったのは京都の五条大橋ですが、この場所に当時は橋が無かったという説もあります。
少し話がそれましたが、吉田義男さんは軽やかな守備の動きから”牛若丸”と呼ばれたそうです。
吉田義男さんの守備で特徴的なのは堅実かつ美しく、飛んだり跳ねたりと軽やかな点です。
守備動作で気を付けていたのはボールを持っている時間を短くすること、つまり打球をキャッチしてから送球するまでの動作を可能な限り素早くすることでした。
この素早さを表すエピソードとして有名なのは、当時の一塁手・遠井吾郎さんが何度も送球を取り損なうことから「ゆっくり投げて下さい」と頼んだことがあったそうです。
プロですら驚く”捕球から送球の早さ”は牛若丸の名にふさわしい軽業師と言えますね。
牛若丸と呼ばれるまでの苦労
吉田さんのスピーディーな守備は、多くのファンが注目した神業でした。
ですが、いくら吉田さんでも、最初からいきなり「牛若丸」だったわけではありません。
入団したばかりの頃から優秀ではあったものの、その力をうまく発揮できない時期がありました。
その頃は、「牛若丸」ではなく、「失策王」と呼ばれていたのだとか。
入団時から才能を見いだされ、レギュラーに抜てきされるも、1年目の失策は38、2年目も30と、むしろ“失策王”だった。
失敗が非常に多いことから生まれた呼び名であり、吉田さんにとってはとても悔しい名前だったことでしょう。
ミスの連発で落ち込むことも多かったようですが、当時の監督だった松木謙治郎さんは、吉田さんをずっと起用し続けます。
松本さんの口癖は、「人は失敗して覚える」。
おそらく、吉田さんの失敗を成長のチャンスと捉え、少しずつ上手になっていくことを期待していたものと思われます。
「失策王」と呼ばれるほどミスが多い選手を使い続けることには、少なからず批判の声もあったはずですが、松本さんは吉田さんを信じていたのでしょう。
その後、めげずに守備のスキルを磨き続けた吉田さんは、ついに「牛若丸」と呼ばれるほどの力を身につけます。
どんなに失敗しても、あきらめなければ希望はあるということですね。
牛若丸でも苦手だった選手
守備においては「牛若丸」と大人気だった吉田さんですが、打撃では苦戦することもありました。
現役時代の思い出を語る吉田さんは、苦手としていた選手が杉下茂さんであることを明かしています。
低めの球が苦手だったため、「フォークボールの神様」と呼ばれた杉下さんは、非常に相性が悪かったようです。
杉下さんも、吉田さんがフォークを苦手としていることがわかっていたようですね。
だからこそ、たまに打つと驚いていたのでしょう。
昔からのファンはよく知るエピソードと思われますが、最近野球にはまった新しいファンは、『「牛若丸」でも苦手なことがあったんだ』と驚く人がいるかもしれません。
素早い守備が得意な吉田さんでも、その俊敏さを打撃で活かすのは難しかったんですね。
野村克也も吉田義男の守備の上手さを絶賛!
うまくいっているときは、周りに人がたくさん集まる。だが、一番大切なのは、どん底のとき、誰がそばにいてくれたかや。
(野村克也) pic.twitter.com/1yCeIDqab3— 有名人の心残る名言集 (@yumei_meigen) 2020年1月18日
次は辛口で知られる野村克也さんが吉田義男さんの守備を絶賛していた件を見て行きます。
野村克也さんは吉田義男さんについて「ハデで見栄えが良い」とカッコよさについても触れ、グラブさばきについては「まるで手品師」と技術の高さを絶賛していました。
そんな中、最近のテレビで多く見かける「○○総選挙」や「○○が選ぶ○○」という企画がありますが、野村克也さんもベストナインを選ぶ企画を依頼されていました。
吉田義男さんや木塚忠助さんを褒めつつ、巨人の広岡達朗さんを選出していました。
選んだ理由については「堅実性さで・・」とコメントしていますが、吉田義男さんと木塚忠助さんのどちらも選び難かったので広岡達朗さんを選んだのかも知れませんね。
ただ、キャッチャー目線だと何よりも”堅実性”を求める気持ちも分かる気がします。
吉田義男の生い立ちや現在の自宅はどこ?
吉田義男さんの生い立ちについては色々と妙な噂が流れていました。
中でもひどい噂だと”両親も兄弟も居ない天涯孤独な少年”だったと書かれていますが、吉田義男さんが高校生の頃に両親が亡くなったと言われています。
ちなみに兄弟も姉が居て、姉の子(甥)は近鉄バファローズに入団した谷真一さんです。
吉田義男さんは京都市中京区で生まれましたが、少年時代は太平洋戦争中だったので母の故郷(本梅村:ほんめむら・現在の亀岡市)に避難生活をしていたそうです。
もしかすると、このエピソードが間違って伝わって”天涯孤独”と呼ばれたのかも知れません。
戦争中だったので食料も少なく毎日空腹と闘っていたそうですが、小さい頃に野菜やイモが主食だった反動もあってかプロ入り直後は野菜を食べない偏食家だったそうです。
平和な時代で野球に専念できる環境が素晴らしいと再認識させられるエピソードです。
現在の吉田義男さんの自宅は兵庫県宝塚市にあり、宝塚市の大使としても活動しています。
少年時代は色々と苦労をされた吉田義男さんですが、周囲の助けや自分の才能を磨くことで名選手にまで成長し、現在は幸せな余生を過ごせている様子でした。
とは言え、野球の解説や普及活動をバリバリしているので”余生”と言うと怒られそうです(笑)
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