「落語立川流」を創設し落語界に新風を巻き起こした立川談志(たてかわだんし)さん。
立川談志さんが今の落語界ひいては芸能界に多大な貢献をした事は間違いありません。
立川談志のプロフィール
本名: 松岡克由(まつおか かつよし)
生年月日: 1935年12月2日
没年月日: 2011年11月21日(75歳没)
出身地: 東京府東京市小石川区(現: 東京都文京区)
最終学歴: 東都高等学校(中退)
所属: 落語協会、落語立川流
立川談志の娘はタレント
立川談志さんと妻・則子さんの間には1女1男が誕生。
長女の松岡ゆみこさんは女優やタレントとして芸能活動を行っています。
立川談志さんの娘という事で「女談志」と呼ばれる事もあるようです。
松岡ゆみこさんがデビューしたのは1983年頃で当初は「松岡まこと」の芸名で活動していました。
不倫騒動で娘を擁護
ラジオにレギュラー出演するなど順調な活動をしていたゆみこさんですが、デビューから約1年後、当時不倫関係にあった男性と駆け落ちしてしまいます。
不倫相手と駆け落ちなんて「流石は立川談志さんの娘」といったところでしょうか。
ただ、所属事務所は激怒し「松岡まこと」が芸能界から引退する事を発表してしまいます。
大騒動になっている事を知ったゆみこさんが頼ったのは父、立川談志さん。
駆け落ちした事で引退に追い込まれたのは自業自得と言えなくもないですが、立川さんは「俺が代わりに闘う」と父親らしい対応。
その後、立川さんは会見を開き「芸能界が嘘だとわかった」と娘を擁護するコメントをしています。
松岡ゆみこさんは、その態度に初めて「頼もしくてカッコイイ」と思ったそうです。
家庭でのイメージが全く出来ない立川談志さん。
ですが娘にとっては立派な父親だったようですね。
娘のために頭を下げる父親
立川さんが娘を大切にする様子は、周囲の人も目撃していました。
初めてのテレビ出演で、明石家さんまさんと共演することになったゆみこさん。
明石家さんは、そのとき挨拶に来た立川さんの様子を明かしたことがあります。
普段は『師匠よろしくお願いします』と言われている人が、娘さんが初めてテレビに出るときに、わざわざ俺に『娘が今度お世話になるのでよろしく』と頭を下げに来た。
明石家さんに頭を下げたのは、そのときが最初で最後。
普段の姿からは想像できないまさかの行動に、とても驚いたようですね。
愛娘が初めてテレビに出ることになり、いても立ってもいられなかったのかもしれません。
それだけ娘のことが心配だったのではないでしょうか。
こうした行動は、銀座にあるゆみこさんのクラブでも、多くの人が目撃していたようです。
立川さんがお店に来ると、すべてのお客さんに対して丁寧に頭を下げていたのだとか。
その行動を見たお客さんは「すごく腰の低い人」という印象を抱いたみたいですね。
お店で初めて生の立川さんを見て、「こんな人だったの?」と驚く人も多かったのではないでしょうか。
毒舌や暴言のイメージから気性の激しい人物を想像していた人は、あまりのギャップに戸惑ったかもしれませんね。
こうしたエピソードからは、立川さんの深い愛情が伝わってきます。
立川談志の息子は社長
立川談志さんの娘は芸能活動をしているようです。
では一方の息子は何をしているのでしょうか。
立川談志さんが爆笑問題の太田光さんの事を「俺の息子」と言っていましたがもちろんこれは冗談。
それだけ太田さんの事を気に入っていたという事です。
落語家ではない息子
本当の息子の名前は松岡慎太郎さん。
立川さんが所属していた有限会社「談志役場」の社長を務めています。
かつては父親のマネージャーもしていたそうです。
林家正蔵さんや林家三平さん、林家たま平さん、二代目 林家木久蔵さんなど落語家の子供が落語家になる事は少なくありません。
ですが慎太郎さんは落語家ではなく陰から父親を支える仕事を選んでいます。
父親が偉大過ぎるあまりに「落語」という同じ土俵に立つ姿を想像できなかったのでしょうか。
もし慎太郎さんの父親が別人だったなら、落語家になるという選択肢があったかもしれません。
間近で立川談志さんを見られるというのは、幸福でもあり不幸でもあるのですね。
息子が撮影した父の姿が話題
マネージャー時代の慎太郎さんは、父親の映像をビデオテープに記録していました。
立川さんが63歳の1999年から撮影を始め、ずっと撮りためていたテープは、750本にもなったそうです。
最初の映像には、立川さんが想いを語るシーンもありました。
「本にしないで画で映っていくという時代。具体的にそこに生きてはいなくてもタイムスリップできるようになってくる」
テープには、体の衰えに悩み苦しむところなど、普通なら人に見せたくないはずの姿もしっかり残っていました。
立川さんには「落語家として恥もすべてさらけ出す」といった考えがあったそうなので、どんな姿でもとにかく記録しておきたかったのでしょう。
このテープの一部は、2021年に放送された立川さんのドキュメンタリー番組で公開されています。
番組を見て立川さんの覚悟のようなものを感じとった人は、圧倒されたかもしれませんね。
慎太郎さんが長く続けた仕事は、立川さんが生きた証として、これからも語り継がれていくことでしょう。
立川談志の家には志らくが住んでいる?
「大改造!!劇的ビフォーアフター」でリフォームされる事が大きな話題となった立川談志さんの自宅。
東京都練馬区にある邸宅は約40年前に中古で購入したもの。
住居と仕事場を兼ねていましたが、亡くなってからは空き家となっていました。
老朽化に加えて湿気により立川談志さんの資料や衣装がカビだらけ。
娘のゆみこさんが「何とかしないといけない」、と思案していたところ「住みたい」と手をあげたのが立川志らくさんでした。
志らくさんといえば、情報番組の司会を務めたことがあり、コメンテーターとしても活躍中。
立川談志さんは「俺に似ている」と志らくさんの事を大層可愛がっていたそうです。
そんな愛弟子が自分が住んでいた自宅での暮らしを希望するなんて。
立川談志さんにとってこれほどうれしい事はないでしょう。
老朽化と湿気の対策は講じつつも、書斎はそのまま残すという見事なリフォーム。
リフォーム後も変わらない書斎を見て、松岡ゆみこさんは「父がいそうな気がする」とコメントしていました。
なお、書斎以外の部分については取り壊して建て直し。
大がかりなリフォームとなったため、かかった費用は4000万円とかなりの金額になっています。
立川談志の酒にまつわる逸話の数々
お酒で失敗した経験を持つ人は多いのではないでしょうか。
芸能界でもお酒が原因で不祥事を起こしてしまった人が少なくありません。
立川談志さんも過去にお酒が原因で不祥事を起こした事がありました。
それは1976年の沖縄開発庁政務次官を務めていた時のこと。
二日酔いでお酒の臭いをさせたまま記者会見に姿を現した立川談志さん。
記者に「公務と酒のどっちが大切なのか」と問われると「酒に決まってる」と発言。
この言動がきっかけとなり沖縄開発庁政務次官を僅か36日で辞任しています。
お酒が残った状態で公務を行うのは決して褒められた事ではありません。
ただ、立川談志さんがお酒が原因で不祥事を起こした他の人と違うところがあります。
それは「お酒を悪いものにしない」という事です。
立川談志さん曰く「お酒が人をダメにするのではない。人は元々ダメという事を教えてくれるもの」。
また、立川さんは咽頭癌が発覚した際に「癌になったくらいで酒とタバコをやめるなんて意思が弱いやつだ」と発言しています。
古くから「酒は百薬の長」と言うように適量を守ればお酒は決して悪いものではありません。
その適量を守る事が出来ない人間が悪い、と伝えたかったのではないでしょうか。
立川談志さんが適量を守れていたかは怪しいところではありますが。
立川談志の経歴まとめ
長く続く落語界には名人と呼ばれる落語家は少なくありません。
ですが天才と呼ばれる落語家は数えるほど。
間違いなく天才落語家と呼べる一人が立川談志さんです。
テレビでの毒舌で破天荒、気難しい姿ばかりが印象に残ってしまいますが、その一方で落語家としては常に真摯な姿勢を貫いていました。
落語には大きく分けて江戸時代〜大正時代に作られた「古典落語」とそれ以降に作られた「新作落語」の2つがあります。
そのため、落語家によって得意とする落語は異なります。
公私に渡って型破りな立川談志さんですが意外にも落語で得意としていたのは「古典落語」。
ですが、普通に古典落語を演じる訳ではありません。
立川談志さんの古典落語は噺の中に自身の意見や哲学を盛り込むオリジナルの古典落語。
その為、落語通の間では「噺ではなく談志を聞く」と言われていました。
破天荒と生真面目さが同居する立川談志さん。
自分の事は自分が良く分かるのか若い頃は「所帯を持つような人間ではない」と思っていたそうです。
そんな立川談志さんですが1960年に則子さんという女性と結婚。
当時、則子さんには婚約者がいたそうですが、口説き落として結婚する事になったんだとか。
則子さんは今でいう「天然」で落語の世界に全く興味が無かったそうです。
その事が逆に立川談志さんの息抜きとなり一緒にいて心地よかったのでしょうね。
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