大御所俳優という言葉がピッタリだった丹波哲郎(たんば てつろう)さん。
他を圧倒する演技力と存在感は「不世出の俳優」と言っても過言ではないかもしれません。
丹波哲郎のプロフィール
本名: 丹波 正三郎
生年月日: 1922年7月17日
没年月日: 2006年9月24日(84歳没)
身長: 175cm
出身地: 東京府豊多摩郡大久保町(現: 東京都新宿区)
最終学歴: 中央大学法学部英法科
丹波哲郎の妻は良妻の鑑
丹波哲郎さんは大学卒業後、団体職員として働いていた時期がありました。
結婚したのもちょうどその頃。
丹波哲郎さんと結婚した妻の名前は貞子さん。
安定した職業である団体職員から俳優になった当初は仕事が無ければ収入もありません。
ですが、貞子さんは一切文句を言うことなく夫を支え続けたそうです。
貞子さんの献身的な支えもあり、スターの階段を登り始めた丹波哲郎さん。
ところが1958年に貞子さんは急性灰白髄炎を発症し車椅子生活を余儀なくされてしまいます。
この時、貞子さんは33歳という若さ。
普通ならば絶望に襲われてしまうところですが貞子さんは「仕方ない」と前向きだったそうです。
また、貞子さんは夫婦で外出した際に丹波哲郎さんが車椅子を押そうとすると「丹波哲郎という商品を傷つけてはいけない」嫌がる事もあったんだとか。
自分がどんな苦境にあっても夫を第一に考えていた貞子さん。
1997年4月16日に亡くなった際には丹波哲郎さんは大号泣してしまったそうです。
妻のおかげで俳優になることを決心
前述のとおり、貞子さんと結婚した当時はまだ俳優ではなく、一般人だった哲朗さん。
サラリーマンとして生活していましたが、仕事に対するモチベーションはかなり低かったようですね。
のちに息子の義隆さんが語ったところによると、いつも仕事をさぼって家にいたのだとか。
貞子さんがミシンを使っているとき、その横で雑誌を読みながらダラダラ過ごすのが日課だったそうです。
そんな状態から俳優を目指したきっかけは、ある日の貞子さんとの会話だったことを、義隆さんが明かしています。
あまりにも怠惰な哲朗さんにしびれを切らしたのか、貞子さんは今後の仕事について問い詰めたのです。
「母が“このままじゃどうしようもない。本当は何やりたいの?どうしたいの?”。“俳優やりたい”と言い出したんですよ」
この言葉を聞いた貞子さんは、「やるなら日本を代表する役者に」といった叱咤激励をしました。
当時の哲朗さんがどの程度本気だったのかは不明ですが、貞子さんが背中を押してくれたことで、やる気に火がついた可能性もありますね。
夫を熱心にサポート
哲郎さんの実家は名家でしたが、援助はしてもらえませんでした。
それが、いつも苦しい生活をしていた理由のひとつです。
祖父や父、兄たちはみんな東大出身で、俳優志望の哲朗さんは落ちこぼれとして見下されていたのだとか。
たとえ肉親であっても、落ちこぼれの生活は助けないというのが、丹波家の方針だったんですね。
そんなときに人生のパートナーとなってくれた貞子さんは、本当に頼もしい女性だったようです。
当時の哲朗さんの衣装は、実は貞子さんの手作りなのだとか。
仕立て屋の娘である貞子さんは、仕事で使う衣装の制作を一手に引き受けることで、余計な出費を減らそうとしたのではないでしょう。
また、撮影所へ通うときも、貞子さんのサポートはとても助かるものでした。
車に使うお金も足りず、しょっちゅうエンストする中古のルノーしか買えなかった哲朗さん。
途中で車が動かなくなったときは、貞子さんが下駄を脱いで後ろから押し、エンジンをかける手伝いをしていたそうです。
そこまでがんばってくれる貞子さんは、哲朗さんにとって本当に大切な女性だったことでしょう。
丹波哲郎の息子(森正樹)
丹波哲郎さんの息子の名前は森正樹さん。
父と同じく芸能会に進みミュージシャンや俳優として活動。
現在は「FOREST STUDIO」というスタジオでボイストレーニングとギタースクールの講師もされているようです。
また、丹波哲郎さんの遺志を受け継ぎ「二代目 霊界の宣伝マン」としての活動も行っています。
そんな森正樹さんですが母親は元女優の江畑絢子さん。
ですが、丹波哲郎さんの妻は貞子さんのはずですよね。
実は森さんは哲郎さんの隠し子だったんです。
森正樹さんがその事を知ったのは小学4年生のころ。
父親が丹波哲郎さんと聞いてさぞ驚いた事でしょう。
隠し子ではありましたが親子の仲は良好でした。
元々、ミュージシャンとして活動していた森正樹さん。
俳優となったのも哲郎さんの「俺も30歳で俳優デビューした」という言葉がきっかけでした。
今後、森さんはどのような活動をしていくのか。
丹波哲郎さんも「霊界」から見守っている事でしょう。
丹波哲郎の息子(丹波義隆)
愛人だった江畑絢子さんとの間に森正樹さんをもうけた丹波哲郎さん。
実の妻である貞子さんとの間にも息子が1人誕生しています。
息子の名前は丹波義隆さん。
俳優として活動しており、多くの映画やドラマに出演しています。
丹波義隆さんが俳優デビューを飾ったのは高校在学中のとき。
製作費節約という理由ながら映画「二十歳の原点」に出演しています。
ただ、義隆さんはその後も俳優を続けるつもりはなく、大学に進学しました。
そんな義隆さんの元に急遽、舞い込んだのが映画「青葉繁れる」のオーディションの話。
ただ、俳優になる意思はなかったため断ろうとするも、丹波哲郎さんのマネージャーに半ば強制的に受けさせられることに。
嫌々ながら受けたオーディションでしたが丹波義隆さんは見事合格し主役に抜擢。
きっと義隆さんには父親譲りの俳優としての才能があったのでしょう。
自分の初主演作という事で映画が公開されると劇場に足を運んだ丹波義隆さん。
そこで自分の演技で一喜一憂するお客さんを目にして「人の心を動かせる素晴らしい仕事」と俳優になる事を決意したそうです。
こうして俳優となった丹波義隆さんは数々の作品に出演。
1977年には映画「アラスカ物語」で親子共演を果たし、映画「丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる」と「丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!」にも出演しています。
また、1981年からは俳優養成所の「丹波道場」の責任者に就任。
養成所の責任者まで任せるなんて。
哲郎さんが息子を信頼していた事が良く分かりますよね。
丹波哲郎には孫がいる!
本妻と愛人との間に子供をもうけた丹波哲郎さん。
息子の1人である丹波義隆さんは1988年に女優の田中久美さんと結婚し1男2女が誕生しています。
生前、哲郎さんは義隆さん夫婦と孫と同居。
孫からは「グッパ」と呼ばれていたそうです。
芸能人の子供だと顔出ししない事が多いですが、丹波義隆さんは旅番組と子供と共演することも。
積極的に顔を出すという事は子供達も「いずれ芸能界に進みたい」という思いがあるのかもしれませんね。
実際に丹波義隆さんの長男は丹波哲郎さんの葬儀で俳優への夢を語っています。
丹波哲郎さんの孫が芸能界デビューとなったら大きな話題となることでしょう。
孫の誰かが「三代目 霊界の宣伝マン」になるかもしれませんね。
なお、森正樹さんに子供がいるかどうかわ分かりませんでした。
丹波哲郎の家系図が凄い
知る人ぞ知る由緒正しい家系の丹波家。
丹波哲郎さんの祖父は薬学者で東京帝国大学名誉教授の丹波敬三さん。
父が陸軍薬務官から日本画家になった丹波緑川さんで親戚には音楽学者の丹波明さんや元大審院院長の林頼三郎さん。
ここに丹波哲郎さんの名前も加わるなんて錚々たる顔ぶれ。
更に、前述のとおり兄弟は東京大学出身で、親戚も多くの人が東大に通っていたのだとか。
きっとその道では知らない人はいない一角の人物となっていることでしょう。
丹波哲郎さんの祖先を遡ると丹波康頼さんの名前も出てきます。
丹波康頼さんとは日本に現存する最古の医学書である医学書の「医心方」を著した人物。
当時の天皇に仕えていた医師でもあり京都にある金輪寺には康頼さんを供養するための石塔が残っているんだとか。
何とも凄すぎる家系図ですよね。
芸能一家だと家系図が豪華な事がありますが丹波哲郎さんの家系図からは品格すら感じますね。
丹波哲郎の経歴まとめ
多くの映画やドラマで存在感ある演技をみせた丹波哲郎さん。
日本を代表する名優として知られていますが、実はハリウッド作品にも何度か出演するなど世界的にも著名な俳優なんです。
丹波哲郎さんは日本アカデミー賞を始め、多くの賞を受賞。
没後にも生前の芸能界への多大なる貢献を称えられ、第44回ゴールデン・アロー賞の芸能功労賞が贈られています。
また、俳優養成所「丹波道場」を設立するなど後身の育成にも積極的でした。
丹波哲郎さんが如何に大きな存在だったか改めて実感した人も多いのではないでしょうか。
そんな哲郎さんと言えば忘れてはならないのが心霊研究家としての活動です。
心霊研究を始めるきっかけになったのは「癌に侵された俳優仲間」。
その俳優を死の不安から救うために死後の世界の研究を始めると没頭。
生涯を心霊研究に捧げるようになりました。
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