幸田露伴の娘・幸田文との関係。孫・青木玉はエッセイスト&家系図まとめ

日本文学史に大きな業績を残した文豪・幸田露伴(こうだ ろはん)。

電信技師として北海道で勤務した経験もありますが、坪内逍遥の『小説神髄』などに影響を受け、文学を志しました。

作家として大成するうえで重要な位置を占めた代表作、『風流仏』、『五重塔』は文学史において名高い傑作です。

その娘・幸田文(こうだ あや)さんも作家として知られましたが、露伴の孫にあたる人物はいるのでしょうか。

家系図から幸田一家を紐解いていきましょう。

幸田露伴のプロフィール

本名:幸田成行(こうだ しげゆき)

生年月日:1867年8月22日(慶応3年7月23日)

身長:不明

出身地:武蔵国江戸下谷三枚橋横町(現在の東京都台東区)

最終学歴:電信修技学校

幸田露伴と娘・幸田文との関係

文さんは1904年、幸田家の次女として現在の墨田区に生まれました。

エッセイスト、小説家として知られ、代表作の『流れる』や『おとうと』は映像化、舞台化されて有名です。

24歳で酒屋の三男・三橋幾之助と結婚し1人娘をもうけますが、その後酒屋は廃業。


夫の結核がきっかけで、娘のことも考え離婚した後は、露伴のもとへ帰りました。

戦時中は父、娘、孫の3人で暮らしています。

戦時中の借家暮らし、戦後の父の看病と死はエッセイの中に描かれており、当時の生活を知るうえで貴重な資料としても有名です。

文さんの文体の特徴は、ひらがなを効果的に使った柔らかい雰囲気と同時に、江戸前の気風の良さを感じさせる爽快な言い回しでしょう。

露伴の文体は漢文で現代人は敬遠しがちですが、文さんの読みやすく庶民的な作品は世代を超えて愛されています。

「父は好む道を、私は好まざる道を進んだ」と述べている通り、若い時から苦労を重ねてきたにもかかわらず、くよくよ悩まずに作品へ昇華できるほど強い女性だったのでしょう。

新潮文庫から刊行されたエッセイ『父・こんなこと』では、父・露伴をみとるまでのエピソードが詳細につづられています。

頑固で弱音を見せない昔気質の父と、それ故に病状を常に観察しストレスを抱える娘の様子は、高齢化社会に生きる現代人の胸を打ち続けるでしょう。

文さん自身は、1999年に86歳で心不全により亡くなりますが、晩年は老人ホームで過ごしていたそうです。

家族に世話をされて亡くなった露伴は、比較的幸福だったかもしれません。

娘にはなんでも教えた

文さんがまだ5歳だった1910年、露伴の妻は病気で亡くなっています。

1912年には、文さんの姉も病死しました。

どんどん家族がいなくなり、幼かった文さんはとても寂しい思いをしたのではないでしょうか。


ですが、1912年は露伴が再婚した年でもあります。

新たな家族が加われば、文さんの寂しさも少しは解消される可能性があったでしょう。

ところが、実際はあまりうまくいかなったようです。

再婚相手の児玉八代と露伴は、次第に不仲になっていきます。

しかも、八代は家事が苦手だったそうです。

教育者だったそうなので、勉強の方はできたと思われますが、そちらにばかり偏ってしまったのでしょうか。

母親が家事をしてくれる一般的な家庭とは違い、文さんは自分で家事をやらなければならないこともあったのでしょう。

そこでがんばったのが、父親である露伴でした。

家事が苦手な継母にかわって、父親の露伴は、女学校に通い始めた娘に、性教育から家事までの生活全般のことを自分で教えこんだ。

この教育のおかげで、文さんはほとんどの家事ができるようになったそうです。

それにしても、性教育までやっていたというのはすごいですね。

生きていくために必要なことは何でも叩き込もうとしたのかもしれません。

また、露伴は文さんにカメラを与え、身の回りにある美しいものに目を向けるよう促すこともしたそうです。

子供の頃から受けていたそんな教育は、文さんの感性を磨き、のちに始まる作家としての活動に影響したのかもしれませんね。

実は娘を心配していた

露伴がいろいろなことを教えたわりに、文さんは自身のことを「出来が悪い」と思っていたそうです。


なんでも、一度に多くを覚えることができなかったのだとか。

何度も引っかかりながら少しずつ覚えていったようなので、長い時間がかかったのかもしれません。

そんな娘の姿を見ていたからなのか、露伴は将来を心配していたみたいですね。

お父様の露伴さんが晩年、病に臥せっているとき、文さんのことを「この人がどうやってこれから生きていくかと思うと、心配だ」と、周囲の人にこぼしていたそうです。

熱心に教えてもあまり覚えられない娘が、これからどんな苦労をするか考えてしまったのでしょうか。

ですが、当の文さんは「どんな仕事でもやっていける」といった考え方を持っており、それほど心配はしていなかったようです。

実際、随筆家デビュー後に書くことがなくなった際は、芸者置屋で働いたこともあるという文さん。

物覚えに多少の難があっても、そのたくましさでピンチを乗り越えていったのでしょう。

幸田露伴の孫は青木玉

露伴の孫、文さんの1人娘にあたるのが、エッセイストの青木玉さんです。

幼少期は病弱だったようです。

戦時中は疎開も経験し、戦後は東京女子大学国文科へ進学。

離婚した父親がかつてかかった結核に関心が強かったのか、結核予防会結核研究所の医師だった青木正和さんと結婚しています。

夫は後に同予防会の会長にまでなりました。


1994年に母の全集出版に伴い、自伝的エッセイ『小石川の家』を発表し作家となります。

文豪と名随筆家の血を受け継いでいるので、文才が備わっていても不思議ではありませんね。

幸田家の家系図は?一族の詳細

幸田家で有名な人物は、露伴と文さん、玉さんだけではありません。

文さん以降はどうしても庶民的な印象を受けてしまいますが、元々幸田家は幕臣の一族で、立派な家系図が存在します。

旧幕臣の幸田成延(こうだ しげのぶ)の四男として露伴が生まれた翌年、1868年に旧幕府軍と新政府軍で上野戦争が起こり、幸田家は神田に居を移しました。

長男だった成常(しげつね)はのちに相模紡績の専務になります。

次男の成忠(しげただ)は養子に出され、探検家となりました。

また露伴の妹の延(のぶ)はピアニストとバイオリニストになり、ボストンに日本人として初の音楽留学へ行きました。

その妹の幸(こう)もバイオリニストで、澤井信一郎監督の映画『わが愛の譜 滝廉太郎物語』には、彼女をモデルにしたヒロイン・中野ユキが登場しています。

音楽朗読劇化もされた同映画には、柴田恭兵さんが露伴役、檀ふみさんが延役で出演しており、幸田家のイメージをつかむうえではおすすめの映画です。

またドイツで翻訳家として活動後、帰国してエッセイストとなった青木奈緒さんは、玉さんの娘ですので露伴の曾孫にあたります。

幸田家には露伴親子以外にも多くの偉人が存在した、まさに華麗なる一族でした。

表現者、学者、実業家として大成した人々のひしめく、見事な家系図と言えますね。


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