『高野聖』や『婦系図』で知られる、明治の文豪・泉鏡花(いずみ きょうか)。
天才作家と呼ばれていますが、その理由は何なのでしょうか。
また同じく文豪の尾崎紅葉との関係、結婚相手の詳細、ゆかりの地である金沢と神楽坂についてもご紹介しましょう。
泉鏡花のプロフィール
本名:泉鏡太郎
生年月日:1873年11月4日
死没:1939年9月7日
身長:150cm
出身地:石川県金沢市下新町
最終学歴:北陸英和学校中退
泉鏡花は天才作家?
まずは鏡花について、天才作家と呼ばれる所以を見ていきましょう。
鏡花は夏目漱石や芥川龍之介、谷崎潤一郎ら錚々たる文豪から、その作品を高く評価されています。
自然主義文学が主流だった時代に、鏡花作品は幻想的で不可思議、しかも儚さと美しさを帯びており異色でした。
戯曲『天守物語』は、姫路城の天守閣を舞台とした絢爛たる物語で、摩訶不思議な妖怪たちが登場します。
荒唐無稽ではあるものの、読むものを惹きつける流麗な文体と幻想的な世界は、並大抵の作家の腕では書き残せなかったはず。
本作は世代を超えてファンが多く、映画化、舞台化、さらにアニメ化もされています。
宝塚音楽学校の発表会で使われたこともあるようです。
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時代を経てもなお色あせない、それどころかファンを増やし続けている鏡花は、やはり天才作家なのでしょう。
泉鏡花と尾崎紅葉の関係
次に鏡花と尾崎紅葉との関係を見ていきましょう。
紅葉は鏡花にとって、生涯最大の師匠でした。
作家になる前の鏡花は英語を教えながら、第四高等学校を受験することを目指していましたが、下宿先で紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読み衝撃を受けます。
これがきっかけで文学を志し上京、18歳で紅葉に弟子入りを志願しました。
紅葉は気風の良い下町気質の人物で、一文無しの鏡花の入門を快諾。
鏡花は晴れて、書生生活を開始しました。
師匠の斡旋のおかげで、デビュー作『冠弥左衛門』を京都日出新聞に連載開始。
不評で打ち切りに遭いそうになるものの、紅葉が親身にアドバイスをしてくれたため、完結させることに成功しています。
その後はめきめきと才能を伸ばし、20代前半で文壇での地位を確立しました。
鏡花は当時から紅葉の一番弟子として知られており、師匠が胃がんで35歳の若さで亡くなると、葬儀にて弔辞を読んでいます。
生涯紅葉の写真の前で礼拝し、常にその教えを守ってきた鏡花。
文豪としての地位を築くうえで導き手となってくれた偉大な師匠に、強い感謝の念を抱き続けていたのでしょう。
泉鏡花の結婚の詳細
尾崎紅葉の一番弟子である鏡花ですが、実は結婚に際して師匠から大目玉を食らっています。
鏡花が伴侶となる女性に出会ったのは、1899年(明治32年)のことです。
紅葉と山田美妙が結成した文学結社・硯友会の新年会で知り合った、桃太郎という神楽坂の芸妓でした。
「高野聖」 「婦系図」 泉鏡花と芸者桃太郎 http://t.co/fifVDWaj pic.twitter.com/q2booVSY
— 鈴 suzu (@bellden) February 6, 2013
本名をすずといった彼女と、鏡花は秘かに同棲を開始。
それを知った紅葉は激怒しました。
おそらく一番弟子には、名家の令嬢を嫁にしてやろうと考えていたのでしょう。
黙して語ろうとしない鏡花を折檻した紅葉は、すずには10円の生活費を与えて追放します。
このときの3人の様子は、のちに鏡花が『婦系図』にて描き、新派の舞台にもなりました。
しかし鏡花は涙を呑んで、事態を受け入れたわけではありません。
紅葉の死後にようやくすずと結婚、2人はお互いの名前を刻んだ腕輪を生涯身に着けるほどの仲良しだったそうです。
師匠としては弟子に裏切られた格好ですが、円満夫婦として幸福な2人の姿を知れば、きっと許してくれるでしょう。
泉鏡花の金沢と神楽坂との縁
最後に鏡花ゆかりの土地、金沢と神楽坂についてご紹介します。
金沢は鏡花が生まれ育った土地で、現在は生家跡に泉鏡花記念館があります。
小雨の中、主計町茶屋街をくぐり抜けて泉鏡花記念館に来た。雪岱の装幀本がたくさん見られて眼福。。うっとりすぎる。。幻想の金沢 pic.twitter.com/TlIsC3Fua0
— MTL (@gnosieng) November 28, 2020
記念館の前の通りは新町・鏡花通りという名前で、金沢の人々が今でも鏡花を偲んでいること、そして観光資源としてPRしていることがわかりました。
次に神楽坂ですが、この地は鏡花が上京後10年目に住み始めた街です。
南榎町22に4年間住んだのち、1903年(明治36年)からは神楽坂2丁目22番に転居し、7年間住みました。
亡くなったのは千代田区ですが、作家としての最盛期を神楽坂で過ごしており、神社や遊郭の多いこの街から作品のインスピレーションを得ていたのかもしれません。
尾崎紅葉を生涯尊敬しつつ、愛を貫くためには時に師匠を出し抜くなど、情熱的な面もある作家だったのでしょう。
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