日本文学界に多大な影響を与え、35歳という若さで自らの人生に幕を下ろした芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)。
親友であった菊池寛が創設した芥川賞の知名度はもとより、今も多くの愛読者をもつ人気作家の一人です。
今回は芥川龍之介の子供たちや妻の話題を中心にお送りします。
三人の息子たちはどんな人物で、どんな子孫がいるのでしょうか。
また恋人をはじめ女性関係についても迫ります。
芥川龍之介のプロフィール
本名:芥川龍之介
生年月日:1892年3月1日
身長:不明
出身地:東京市京橋区入船町8丁目(現在の東京都中央区明石町)
最終学歴:東京帝国大学英文科(現在の東京大学)
芥川龍之介の子供は3人の息子
芥川龍之介が文夫人との間にもうけた子供は3人の息子たち。
結婚の翌年にあたる大正9年に長男の比呂志、大正11年に次男の多加志、大正14年に三男の也寸志が誕生しました。
すでに3人とも鬼籍に入っているのがなんともさびしいですね。
長男は俳優
長男・比呂志の名は菊池寛にちなんだもの。
「寛」は筆名を「かん」、本名を「ひろし」と読みます。
芥川比呂志は慶應義塾大学予科から文学部仏文科に進学し、学生演劇に熱中。
のちに俳優や演出家として活躍し、多くの舞台・映画・ドラマに出演しました。
とりわけ昭和30年の『ハムレット』の名演は今も演劇史に語り継がれる伝説となっており、「貴公子ハムレット」と呼ばれるように。
また日本エッセイストクラブ賞に輝いた『決められた以外のせりふ』をはじめ著作も多く、翻訳も手がける多才な人物でした。
持病の肺結核のため、昭和56年に死去しています。
芥川比呂志(芥川龍之介の息子、芥川也寸志の兄)ほんと日本人離れした俳優だな… pic.twitter.com/gTLj5uOxli
— めっつ (@velvetmonk_pma) October 8, 2020
戦死した次男。三男は作曲家
次男の多加志は父に似て文学志向が強かったといわれますが、昭和20年4月13日に現在のミャンマーで戦死。
三男の也寸志は作曲家でした。
黒柳徹子と出演したNHKの『音楽の広場』を覚えている人もいるでしょう。
ダンディなルックスと物柔らかな語り口でお茶の間の人気を集めました。
代表作に『交響三章』などがあり、映画音楽では『八甲田山』『八つ墓村』で日本アカデミー賞最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞。
二人目の妻は草笛光子です。
芥川也寸志は平成元年1月31日に死去しました。
94年前の今日 #芥川也寸志 さんがお生まれになりました🙂
近代音楽の巨匠ですが、私の世代だとやはり70年代の大作日本映画 #砂の器 #八甲田山 #八つ墓村 等々の音楽を担当された方と云う印象がとても強いです。どれも素晴らしかった! pic.twitter.com/5WqRh8Efs1— カミーヤ・ビダン (@eycpH9xX852Z4iW) July 11, 2019
子供が生まれてきた理由を考えてしまう
芥川龍之介は、著書『或阿呆の一生』の中で、子供に対する思いを語っています。
かなりネガティブなものなので、印象に残っている人も多いのではないでしょうか。
芥川龍之介は長男が生まれた時「何の為にこいつも生れて来たのだろう?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」と書き、と感動よりも冷静さが前面に出てしまう自分の思考を冷笑していたのか?とか思ってしまうのですが私は同じ様な思考だけれどある意味親としてはごく自然な考え?と思います…時代の差なのか…
— タチ❖コマ (@Tachi___Coma) September 2, 2020
「何のために、こいつも生まれて来たのだろう❓この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」(芥川龍之介) 人生の荒波にもまれていくと、考えずにおれなくなる時が、誰にでも訪れることでしょう
— フーちゃん (@sLokwz6zaQvUy3K) March 9, 2021
初めて読んだ人の中には、「それならなぜ子供を作ったのか」と感じる人もいたことでしょう。
自分で子供を作っておいて「なぜ生まれてきたのか」とは、なんとも無責任な印象を受けます。
とはいえ、こんなことを書いてしまうほど、龍之介は病んでいたということなのでしょう。
「己のやうなものを父に」という部分からは、父親として相応しくないと感じていることがわかります。
子供が産まれたときの龍之介は、適性のない自分が父親となってしまったことに、ひどい後悔を感じたのかもしれません。
それこそ、「子供など作らなければ」と考えた可能性もありそうです。
子供を作る前に、その先がどうなるかは想像できたように思えますが、そのときの龍之介は少しポジティブ思考だったのでしょうか。
龍之介は最後まで子供たちの人生を心配していたようで、遺書では自分と同じ選択をすすめています。
自殺の動機として記した「将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉が有名な芥川龍之介は、子供への遺書では、「若しこの人生の戦いに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ」とも書いている。
これはあまりにも悲しいですね。
子供を作るということは、尊いひとつの命を生み出し、育てていくということです。
それはノリや勢いだけで決めてよいことではないはず。
子供について検討している夫婦には、龍之介のような後悔をしないよう、しっかり考えてから答えを出してほしいものですね。
秀しげ子との子供は嘘?
詳しくは後述しますが、芥川龍之介と交際した女性の中には、歌人の秀しげ子がいます。
秀は、子供の父親が龍之介だと思っていたようです。
しげ子は産んだ子供の父親が芥川だと主張したといわれるが、事実関係は定かでない。
これが本当なら、龍之介と血のつながった子供は4人ということになります。
ですが、秀の主張には証拠がありません。
自分の目的を達成するため、秀が嘘を言ったとする見方もあるようです。
芥川より2歳年上で、金融業者の父と芸者だった母の間に生まれた彼女は、「電気技師」の妻でしたが、かねてよりファンだった芥川と関係を持つと、自分の子の父親が本当は芥川だと主張、それを繰り返して認知を迫りました。
当時の秀は、妻子ある龍之介のところへ何度も子連れで押しかけたのだとか。
そんな状況に苦悩した龍之介はノイローゼとなり、命を絶ったという説もあります。
4人目が存在について真相は不明ですが、いずれにしても、秀の子供は大きな悩みの種だったのかもしれません。
芥川龍之介、妻・文との馴れ初め
大正5年、龍之介は16歳の塚本文と縁談の契約書を交わします。
結婚したのは大正8年2月のことで、文は跡見女学校に在学していました。
文夫人は海軍少佐・塚本善五郎の娘で、父が戦死して母の実家に身を寄せていたようです。
母の末弟・山本喜誉司が龍之介の友人だったことが二人を結びつけます。
龍之介は文の素直な性格に惹かれたようで、彼女へ送った恋文は有名ですね。
龍之介の死後、三男の也寸志が東京音楽学校予科を志望して音楽の勉強をはじめた時は、ダイヤの指輪を売ってピアノの購入費を用意したという逸話も。
文夫人は昭和33年9月11日、調布市にある也寸志の自宅にて心筋梗塞のため死去しました。
芥川龍之介の恋人たち
東京帝国大学時代に菊池寛らと第三次『新思潮』を創刊し、処女小説『老年』を発表した芥川龍之介。
この時期に青山女学院卒の吉田弥生という女性に恋心を抱きますが、弥生に縁談が舞い込んで雲行きがあやしくなります。
弥生への気持ちを強く意識するようになった龍之介は求婚を決意しますが、芥川家の猛反対にあい泣く泣く断念。
歌人の秀しげ子とは、お互いに既婚の身でありながらの色恋沙汰もありました。
龍之介の最後の恋人といわれているのが、14歳年上の上流夫人で、歌人でありアイルランド文学の翻訳者でもあった片山廣子です。
大正13年の夏、長野県の軽井沢を訪れた龍之介は偶然廣子と出会います。
もともと手紙を交わす間柄ではありましたが、二人は軽井沢での出会いをきっかけに急速に関係を深めていきます。
妻とは文学的な知識を共有できなかった龍之介と同じように、廣子もまた、亡き夫と芸術的なものを分かち合うことはできなかったようです。
二人が惹かれ合うのは自然なことだったのかもしれません。
講演会場での芥川龍之介(大正12年)。演題は「プロレタリア文芸」でした。両手が格好いいですね。 pic.twitter.com/SLDWfGLkmx
— 初版道 (@signbonbon) February 25, 2017
龍之介の死を新聞で知った廣子は以降の人生をひっそりと生きますが、最晩年に刊行した歌集とエッセイ集が高い評価を受け、79歳で他界。
廣子との日々について、もう一度25歳になったように興奮していると手紙に綴った芥川龍之介。
25歳とは、ひたすら執筆に励み、初の短編集『羅生門』と第二短編集『煙草と悪魔』を刊行した時期にあたります。
創作への意欲がみなぎっていた、かつての情熱を思い出したことがうかがえます。
芥川龍之介の子孫
著名な子孫には、比呂志の三女である著述家の芥川耿子(あくたがわてるこ)がいます。
また、也寸志の長男でファッションデザイナーの芥川貴之志、同じく也寸志の長女で交通評論家・メディアコーディネーターの芥川麻実子も子孫です。
なお、芥川耿子と芥川貴之志も子供をもうけていることが明らかになっています。
芥川龍之介の経歴まとめ
芥川龍之介は明治25年3月1日に現在の東京都中央区に誕生し、少年時代に母方の親族である芥川家に養子入りしました。
芥川家は江戸時代、徳川家に仕えた御用部屋坊主の家系です。
大正5年、東京帝国大学在学中に発表した『鼻』が夏目漱石に絶賛されて文壇に登場。
著作は短編小説が多く、『芋粥』など『今昔物語集』に材をとったものから、『杜子春』『蜘蛛の糸』といった児童向けの作品まで多岐にわたりました。
学校の教科書で読んだことがある人も多いでしょう。
しかし心身の衰弱とともに作風は変化。
昭和2年7月24日、睡眠薬を飲んで自ら命を絶ちました。
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