太宰治の生家と幼少期、家族について。兄弟、父との関係とは

『走れメロス』、『斜陽』などでおなじみの小説家・太宰治(だざい おさむ)。

自殺未遂や薬物中毒でトラブルに事欠かなかったため、青森県の地元では長年、快く思われていなかったそうです。

そんな彼の生家と幼少期はどのようなものだったのでしょうか。

また家族にはどういった人々がいるのか、兄弟、父についても見ていき、太宰の生い立ちに迫りたいと思います。

太宰治のプロフィール

本名:津島修治

生年月日:1909年6月19日

死没:1948年6月13日

身長:175㎝

出身地:青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)

最終学歴:東京帝国大学仏文科中退

太宰治の生家と幼少期

太宰は現在の五所川原市金木町に、大地主の津島源右衛門と、たねという女性の間に生まれています。


その生家は県内でも知られた大富豪の家ということもあり、和洋折衷の非常に立派な屋敷です。

1907年に建設以降、五所川原市太宰治記念館「斜陽館」として保存されています。

2004年には国の重要文化財に登録されました。

太宰は幼少期、多忙な父と病弱な母の代わりに、乳母に育てられています。

しかし乳母がすぐに辞めてからは、11歳年上の女中タケが子守をしました。

太宰が最も甘えていたのが、このタケだったとされ、成人後に再会した模様が小説『津軽』にも描かれています。

太宰はかなりの秀才で、金木第一尋常小学校に入学してからは、神童のように扱われていたようです。

兄2人の成績が振るわなかった分、名家の子にふさわしい成績を維持するため努力していたのかもしれません。

父が肺がんで亡くなったのち、青森県立青森中学校に進学。

そこでも優秀な成績を収め、芥川龍之介などの文学を愛読するようになります。

しかし芥川の自殺に衝撃を受けてからは引きこもりがちになりました。

この時期から左翼活動を行い、また小説を書き始めますが、文学賞には落選。

1929年12月に、初めての薬物による自殺未遂事件を起こしました。

特高の取り締まりを逃れるためだったとも、芥川の死に影響を受けたためとも言われています。

その後は心中未遂を度々起こし、最終的な死因も入水による心中のため、地元では「金木のごじゃらし(恥さらし)」と呼ばれました。

子守だったタケは太宰の死後、35年が経った年に85歳で亡くなっています。

大切に育てた子が、名家の恥さらしと呼ばれ続けたことに、心を痛めていたに違いありません。

太宰の家族について

ここからは、太宰の家族について見ていきましょう。

貴族院議員を務めていた父の6男として生まれていますが、彼以外の身内にはやはり政治家や実業家が多いようです。

太宰自身の妻となった女性は、津島美知子(旧姓:石原)という名前でした。

地質学者・石原初太郎の4女で、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)を卒業後、歴史と地理の教員をしていた才女です。

太宰とは、彼の師匠である作家・井伏鱒二の世話によって縁談が進められ、1939年に結婚しました。

この年から、2人は現在の三鷹市に移り住んでいます。

2人の間には、一男二女がもうけられます。

長女の園子は元衆議院議員の津島雄二の妻で、2020年に78歳で亡くなりました。

次に生まれた長男の正樹はダウン症を患っており、15歳のとき肺炎で早世しています。

3人の子供の中で最も有名なのが、次女の里子です。

津島佑子(つしま ゆうこ)の名前で小説家となり、数々の賞を受賞、何か国語にも作品が翻訳され高い評価を受けています。

代表作で祖父・石原初太郎の生涯を描いた『火の山―山猿記』は、2006年放送のNHK連続テレビ小説『純情きらり』の原案となりました。

2016年に68歳で亡くなるまで、創作や社会活動に邁進しています。

また太宰は愛人である太田静子とも一女をもうけていました。

エッセイストの太田治子(おおた はるこ)がその娘で、NHK番組「日曜美術館」のアシスタントを務めた経験もあります。

このように太宰の家族は作家、政治家など、何らかの形で名前を残していることがわかりますね。

太宰治の兄弟との関係

では太宰の兄弟と父について、もう少し詳しく見てみましょう。

太宰の兄弟で最も有名なのが、津島家の3男で政治家の津島文治です。


政治評論家を志し、早稲田大学政治経済学部に入学、在学中は演劇や長唄の活動を行うなど芸術にも関心があったようです。

しかし大学卒業の翌日に父が急死し、地元へ戻り家督を継ぎます。

その後、金木町長に選ばれ、さらに最年少の青森県議にまでのぼり詰めました。

太宰が心中未遂で逮捕されると、文治は自身の政治的影響力を使って、起訴猶予にまで持ち込み弟を助けています。

しかし真っ当な政治家人生を送る兄と、自堕落な弟は、衝突を繰り返したようです。

太宰の死から25年後、命日の桜桃忌に、文治は初めて弟について語りました。

「修治は偉大な奴だというのも変だし、バカだったというのも当たっていない」と語り、複雑な思いを吐露。

弟が世間にかけた迷惑を知っているからこそ、偉大な文豪として扱われていることに戸惑っていた様子がわかります。

文治は1973年に75歳で死去。

ちなみにかつて演劇活動をしていた彼のDNAを継いだためか、息子の津島康一は俳優となり、舞台の公演中に脳出血で亡くなるという役者人生を全うしています。

太宰治の父はどんな人物か

太宰と文治の父である津島源右衛門は、大地主として知られていましたが、具体的にどんな人物だったのでしょうか。

明治維新後、津島財閥として金融業にも乗り出し、莫大な富を築いた津島家。

源右衛門は元々、松木永三郎という名前でしたが、津島家の養子となって源右衛門を名乗りました。

慶応義塾を卒業したのち、金木銀行を設立して頭取を務めています。

多額納税をすることで、貴族院議員となり、政治活動にも邁進しました。

このようなエリートの生き方に、太宰は徐々に反発を覚え、問題行動を起こすようになっていったのかもしれません。

エリートの家系に育ったことが、むしろコンプレックスとなってしまうのは、天才ならではの悩みですね。


今回は太宰治の生い立ちと家族について見てきました。

地元では恥さらしとされた文豪に、周辺の人々は複雑な思いを抱いていたのでしょう。

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