太宰治の性格とは。波乱の生涯。薬物依存と結核、死因について

思春期の少年少女から大人まで、幅広い世代に支持され続けてきた太宰治(だざいおさむ)。

短い生涯で数々の名作を著した太宰治はどんな性格だったのでしょう。

生涯を振り返りながら、薬物中毒症や結核の病、死因についてみていきます。

太宰治のプロフィール

本名:津島修治

生年月日:1909年6月19日

死没:1948年6月13日

身長:175㎝

出身地:青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)

最終学歴:東京帝国大学仏文科中退

太宰治の性格

太宰治が自己破滅型の作家という位置づけにあるのは、薬物乱用、度重なる自殺未遂、そして愛人との心中という形で生涯を閉じたことを抜きにしては語れません。

生きることを「やりきれない大事業」とする一節が『斜陽』に登場しますが、このように自身を投影した描写が太宰作品には散りばめられています。


太宰自身も繊細な感受性をもつがゆえに憂うつに翻弄され、さまざまな生きづらさを感じていたようですね。

そして、人間不信ではあるけれど常に人の愛情に飢えている、精神の不安定な人でした。

女性関係が派手だったことも特徴ですが、これも愛情への渇望の表れだったのかもしれません。

女性やお金にだらしない性格であったともいえるでしょう。

多くの人が人間としての太宰治に抱く印象は、退廃的で刹那的というイメージではないかと思います。

太宰治といえば、銀座のバー、ルパンでくつろぐ姿を撮った有名な写真がありますが、これには裏話があります。

撮影者によると、この時は太宰でなく織田作之助を撮影していたところ、酔った太宰が自分も撮るようにしつこくねだってきたために、ついでに撮ったということです。

太宰治の魅力は、上手に生きていくことができない幼さや人間臭さにあるのではないかと思います。

完璧な人間というのはそれはそれで魅力的ですが、少しぐらいの危なっかしさがあったほうが保護本能がかきたてられ、人として愛せるもの。

太宰の場合は「少しぐらい」ではないという声が聞こえてきそうですが、師の井伏鱒二をはじめ、周囲の人々が自堕落な生き方を放っておけずに手を差し伸べていたことからも、人間的な魅力をうかがい知ることができます。

薬物中毒症の克服と結核の病

昭和10年の春、急な腹痛に襲われて阿佐ヶ谷の病院に運びこまた太宰治。

急性盲腸炎のため手術を受けるも腹膜炎を併発してしまいます。

薬物依存症になったきっかけは、この時に受けた麻薬性鎮痛剤、パビナールの注射でした。

太宰はパビナール依存に苦しみ、多い時は1日に50本を自分で打っていたといいます。

当然ながら薬の購入費はかさみ、やがて多方面に借金を抱えるように。

同年夏の第1回芥川賞落選の際、太宰は薬物中毒者でした。

翌年2月には中毒症の治療のため佐藤春夫の紹介で済生会芝病院に入院しますが、わずか10日で根治しないまま退院。

8月には再びパビナール中毒症と結核治療のため群馬県の谷川温泉を訪れます。

さらに10月、心配した井伏鱒二らが半ば太宰をだますような形で東京武蔵野病院の精神病病棟に強制入院させました。

およそ1か月の入院治療で中毒症は根治。

これに懲りたのか、以降はパビナールに手を出すことはなかったようです。

太宰治はまた、結核にも苦しんでいました。

昭和16年に身体検査で肺浸潤と診断を受け、徴用を免除。


その数年後には、ひどい喀血をしているところを新潮社の野原一夫に目撃されています。

乱れた生活習慣のために最晩年には結核が悪化していたようで、『人間失格』は栄養剤を打ちながらの執筆であったということです。

太宰治、その波乱の生涯

明治42年6月19日、太宰治は現在の青森県五所川原市の大地主の家に六男として生まれました。

13歳の時に父親が病没。

弘前高校時代は敬愛する芥川龍之介の自殺にショックを受けて学業を放棄。

芸妓・小山初代と知り合い深い仲になります。

やがて左翼思想に傾倒するとともに、資産家の息子という出自に悩み、カルモチンによる自殺未遂。

東京帝国大学文学部仏文科入学後は井伏鱒二に師事しました。

初代との結婚と引き換えに実家からは除籍されます。

小山家と結納を交わした数日後にカフェの女給・田部シメ子とカルモチン心中を図りました。

一命を取りとめた太宰は初代と仮祝言。

昭和8年、『列車』を太宰治の筆名で発表。

昭和10年、授業料未納により大学から除籍され、都新聞社の入社試験にも落ち、またもや自殺未遂。

同年、芥川賞に落選。

昭和12年、薬物中毒症治療の入院中に初代が浮気したことにショックを受けた太宰は、二人でカルモチン自殺を図りますが、今回も未遂となり離婚。

昭和14年、井伏鱒二が紹介した教師・石原美知子と結婚式をあげました。

美知子との結婚後は 作風が明るく健康的なものとなり、『女生徒』『走れメロス』などの名作を執筆。

昭和16年に長女・園子、昭和19年に長男・正樹が誕生。

昭和22年、次女・里子が誕生。

同年に愛人の太田静子との間に娘が誕生し、これを認知しています。

この年、『斜陽』が大反響を呼びました。

昭和23年、連載中の小説の草稿や妻に宛てた遺書などを残し、玉川上水にて山崎富栄と入水自殺。

太宰治の死因

玉川上水で入水した太宰治と山崎富栄の遺体が発見されたのは、失踪6日後の6月19日でした。

この日は奇しくも太宰の39回目の誕生日にあたります。

当時の朝日新聞によると、腰を赤い紐で結んだ二人の遺体は10mほど下流の川底に沈んでおり、太宰が富栄の上に折り重なるようにして棒杭に引っかかっていたとのこと。

死亡推定日は6月14日午前0時です。

この事件のように水中から遺体が上がった場合、溺死なのか、溺死以外の要因によって水中で死んだのか、あるいは殺されてから水中に投棄されたのかなど、いろいろな憶測が飛び交うのは無理もないこと。

二人の入水には富栄による無理心中説や狂言自殺失敗説が当初からささやかれており、今もファンはさまざまなとらえ方をしているようです。

入水への抵抗を思わせる下駄の跡などが現場に残っていたという証言や、検死結果として流布している「水をほとんど飲んでおらず穏やかな表情をしていた」という情報が原因になっているのでしょう。

しかし、遺族が公開した遺書には「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と記されていました。

真実を知るのは本人のみですが、この記述が本心だとすれば、自らの意思による自死とみるのが自然でしょう。

「青春のはしか」といわれることもある太宰治の作品。


中学時代に『人間失格』を読んで衝撃を受けたお笑い芸人が芥川賞を受賞しました。

自身のこんな生かされ方を、太宰治はどんな思いでながめているのかを知りたいですね。

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