『ヴィヨンの妻』など名作で知られる、小説家の太宰治(だざい おさむ)。
彼の妻について調べていると、美知子や初代といった名前が出てきますが、正式な妻は誰だったのでしょうか。
今回は太宰の結婚の詳細を見ていきつつ、心中相手の山崎富栄と、2人の遺書のことも確認していきましょう。
太宰治のプロフィール
本名:津島修治
生年月日:1909年6月19日
死没:1948年6月13日
身長:175㎝
出身地:青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)
最終学歴:東京帝国大学仏文科中退
太宰治の妻・美知子は正妻
まずは太宰の妻として名前が挙がる、美知子と初代はどんな人物なのか見ていきましょう。
美知子は1912年、地質学者の石原初太郎と妻・くらの間に生まれた、石原美知子という女性です。
1922年から父の郷里である山梨県甲府市に移り住み、以降は甲府で育ちます。
東京女子高等師範学校文科(現在のお茶の水女子大学)に在学中、父が亡くなり、卒業直後に兄を失うなど相次いで不幸がありました。
その後は、山梨県立都留高等女学校(現在の山梨県立都留高等学校)で教員となり、地理と歴史を教えています。
学者の娘というだけあって、当時としてはかなりの才女ですね。
見合いから正式な妻へ
1938年、作家の井伏鱒二の世話によって、太宰との縁談が進められることになります。
同年に見合いをして、婚約に至り、年末には都留高等女学校を退職しました。
翌年1月に結婚式を挙げ、9月には三鷹に移り住みます。
それ以降、1948年に太宰が心中自殺を遂げるまで、美知子が正式な妻でした。
いい夫婦の日は過ぎちゃったけど文豪さんたちの結婚式。いい夫婦じゃなかった人もいるけど。
①1939年、太宰治と美知子さん
②1919年、芥川龍之介と文さん
③1915年、谷崎潤一郎と千代さん
④1958年、三島由紀夫と瑶子さん pic.twitter.com/3ZHAItGwTL
— 進士 素丸 (@shinjisumaru) December 3, 2019
一男二女を生みましたが、太宰の死後は大家から三鷹の家を立ち退くか、購入するか迫られた末に文京区へ転居。
以降は転居をくり返しました。
1960年に息子の正樹を15歳で失うなど不幸に見舞われますが、自身は夫の回想録『回想の太宰治』を発表し、85歳まで長生きをしています。
トラブルに事欠かなかった作家の妻として、気苦労の絶えない人生だったことがうかがえますね。
妻をモデルにして書いた作品
美知子と結婚した後の太宰は、1942年に短編小説『十二月八日』を発表しています。
とある主婦が書いた日記という形式の作品で、主婦のモデルとなったのは妻の美知子です。
作品の中では、戦争が始まった頃の日本の家庭の様子などが描写されています。
それは、太宰が妻になりきって描いたものといえますね。
ちびちび読んで、太宰治全集、5巻。以前どこか文庫版で読んだと思う、『十二月八日』を再読。作家の妻による手記という体裁で、開戦を伝えるラジオ、香港襲撃、隣組の意気込みなど。太平洋戦争のはじまりの様子や雰囲気がよく伝わってくる。創作とは言え。
— Luc.the crack up (@CrackLuc) February 8, 2023
『十二月八日』太宰治
以前読んだのは「昭和」の頃か。戦争をもっと翼賛していた作品と記憶していたが違っていた。巷ではハワイ、シンガポール、香港等の戦果に浮かれていたはずだが、これからの大戦への決意を妻に代弁させている。
それより「にせんぬぬひゃくねん」と発音はならなそうだ。— 天網恢恢 (@tk2308) September 4, 2022
普段の美知子の様子から想像を膨らませ、「あの時はこんな風に思っていたかも」という書き方をしたのかもしれません。
太宰が感じたことを妻に言わせたというのも、ありそうなことです。
小説を読めば、夫婦の目から見た世界がどんなものだったか、よくわかるのでしょう。
当時の日本の様子や雰囲気などを知りたい人にとっても、興味深い作品になっているようです。
それにしても、美知子をモデルにして書いたとなると、結婚しなかった場合はどうなったのでしょうか。
妻ではない他の誰かをモデルにしたかもしれませんが、それだと少し違う作品になった可能性もあります。
主婦の日記形式ではない別の『十二月八日』が誕生していたのかもしれませんね。
太宰治の内縁の妻・初代
太宰には内縁の妻である小山初代(おやま はつよ)という女性がいました。
美知子と同じく1912年に生まれ、父の失踪後は青森県で育ちます。
地元の料亭「玉屋」で芸妓の使い走りをするようになり、1927年に旧制弘前高校の学生だった太宰と出会いました。
1930年には店から出奔し太宰と上京、2024年現在の墨田区で同棲しています。
太宰はこのことと非合法の左翼活動を行ったということで、青森に連れ戻されたのち実家から除籍。
さらにカフェの女給だった田部シメ子と心中事件を起こしたことで、初代は激怒しました。
それでも太宰との縁は切らず、同年12月には仮祝言を上げています。
仮祝言のあとは上京し、五反田で暮らしました。
別れたあとの生活
1936年に太宰が薬物中毒の治療で入院すると、初代は太宰の義弟と姦通。
それが太宰の知るところとなります。
太宰と初代はすべてを終わらせるため、心中を図るも失敗。
その後、正式に離婚し、初代は青森へ帰り実家の魚屋を手伝いました。
しかし平穏な人生を好まない女性のようで、満州へ渡り、青島で軍の世話係の男性と生活したとされています。
顔面神経痛などの病を患っており、衰弱していたのか、1944年に33歳で青島にて亡くなりました。
遺骨は日本に戻され、翌年、生前に彼女と交流があった井伏鱒二から太宰へ訃報が伝えられたそうです。
初代は左翼活動をしていた時期もあり、薬物に手を出していた可能性も高いです。
美知子とは対照的で、自分も太宰と同じように刺激的な人生を送りたいと考えていた女性なのでしょう。
正式な離婚はあったが入籍なし
前述のとおり、太宰には初代と正式に離婚した過去があります。
そのことから、初代にも正式な妻のイメージを抱く人がいるかもしれませんが、厳密には違います。
太宰と初代の祝言はあくまでも「仮」です。
実際に入籍したわけではないため、本当に妻といえるのは美知子だけ。
初代は、やはり内縁の妻だったのです。
仮祝言のみで入籍をしなかった理由は、津島家の意向とされています。
太宰の本名が「津島修治」であることからもわかるように、津島家は太宰の実家です。
親族が2人の結婚を認めなかったんですね。
とはいえ、仮祝言のあとは上京して新所帯を持っていた初代。
事情をよく知らない周囲の人から見れば、太宰と初代は普通の夫婦に見えたのではないでしょうか。
他の夫婦と変わらない生活をしていたなら、入籍していない関係とはいえ、夫婦といっても間違いではありませんね。
太宰治の心中相手・山崎富栄
次は太宰の心中相手、山崎富栄という女性について見ていきましょう。
富栄は1919年、日本初の美容学校、東京婦人美髪美容学校の設立者・山崎晴弘の次女として生まれます。
父の英才教育を受け、英語や聖書の知識があり、慶應義塾大学で聴講生をしていたこともある才媛でした。
さらに銀座でオリンピア美容院を経営していたそうです。
1944年に三井物産の社員と結婚しますが、間もなく夫は激戦地マニラの戦闘で行方不明となります。
翌年には東京大空襲で、父の美容院も自身経営の美容院も共に焼失し、滋賀県へ疎開を余儀なくされました。
戦後は三鷹へ移住し、昼は美容院、夜はキャバレーで勤務。
1947年、うどん屋で知り合った太宰と親しくなり、それまで読んでいなかった彼の著作を読み始めました。
太宰から「死ぬ気で恋愛しないか」と誘われたことで、恋愛関係に発展。
富栄は本気で太宰を愛し始めたからこそ、彼が太田静子という愛人との間に娘をもうけたときは、激しく動揺し嫉妬したとされます。
それでも貯金を使い果たしてまで太宰の世話に明け暮れていることから、富栄の方が心中したい気持ちが強かった可能性が高いでしょう。
1948年6月13日に2人は消息を絶ち、19日に玉川上水でそれぞれの水死体が発見されました。
2人の死の真相については諸説ありますが、近年では心中ではなく、富栄が青酸カリを使って太宰を脅した可能性が高いとされています。
太宰の方には抵抗した形跡があったこと、彼の水死体は富栄のそれと異なり穏やかな死に顔だったことから、富栄によって何らかの形で仮死状態にされてから川に入ったのかもしれないようです。
太宰の首にはひもで絞められた形跡もあり、富栄が首を絞めたのだという説もあります。
当時のマスコミが、心中だと報道した方が注目を浴びるため、そのように演出したのは確かでしょう。
太宰は度々心中未遂を起こしていましたが、結婚して三鷹に住んでからは精神的に安定していたので、富栄の方が強引に死なせた可能性はあるかもしれませんね。
太宰治と山崎富栄の遺書
2人はそれぞれの身内あてに遺書を残して去ったことが、明らかにされています。
富栄が太宰と連名で書いた遺書で、自分ばかりが幸福な死に方をすることを詫びており、彼女が死を選んだことに満足していた様子がうかがえます。
一方で太宰が妻の美智子にあてた遺書では、「誰よりもお前を愛していました」という記述がありました。
不倫で裏切りを重ねたものの、本気で愛していたのは富栄ではなく美知子だったことがうかがえます。
さらに作家仲間の坂口安吾も、太宰が富栄を愛しているように見えなかったと証言しており、やはり富栄からの強引な要求で死に至ったのかもしれません。
太宰は死の間際、妻に対して不義理を重ねたことをようやく後悔したのでしょう。
その関係は後世の人間からするとドラマチックでもあり、今後も注目され続けていくに違いありません。
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