『山月記』、『李陵』など、中国の古典の世界を描いた小説で有名な文豪・中島敦(なかじま あつし)。
高校の国語教科書でおなじみの作家ですが、生い立ちと生涯はどのようなものだったのでしょうか。
また知られざる性格について、子孫、妻、子供など家族の情報も見ていきましょう。
中島敦のプロフィール
本名:中島敦
生年月日:1909年5月5日
死没:1942年12月4日
身長:不明
出身地:東京都
最終学歴:東京帝国大学文学部国文科
中島敦の生い立ちと生涯
まずは中島について、生い立ちと生涯を見ていきましょう。
中島は現在の東京都四谷に、漢学教員の中島田人(たびと)と母・チヨの間に生まれました。
1歳のとき両親が離婚してからは、父方の郷里埼玉県に転居、しかし父が再婚すると奈良県で暮らしています。
継母のカツが14歳で亡くなると、新たに飯尾コウという女性が継母になりました。
家庭の空気は悪く、このときの実母の不在は中島の心に傷を残し、作品にも影響を与えたとされています。
1926年、5年制の旧制中学を4年で卒業するほど優秀だった中島は、第一高等学校、東京帝国大学国文科へと順調に進学。
森鴎外や谷崎潤一郎のほとんど全作品を読みふけるほど読書に熱中し、海軍少佐の日本語教師も務めました。
しかし病弱なため、肋膜炎で1年間の休学期間があります。
卒業後は横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)で英語、国語、歴史などを教えており、教え子にはのちに大女優となる原節子もいたそうです。
橋本タカと結婚したのちも、教員を続けながら小説も書いていた中島。
パラオ南洋庁に赴任し、教科書の編纂事業に携わったのち、ついに専業作家となりましたがパラオの雨で持病の喘息が悪化。
帰国後も症状は悪くなっていき、「書きたい、書きたい」という言葉を遺して33歳の若さで亡くなりました。
作品集の出版が決まり、専業作家となった矢先の死でした。
幼少期の不遇と細面の繊細そうな外見から、薄幸の作家という印象を抱く人も多いでしょう。
しかし文学への情熱を追い続け、山登りや旅行も楽しむアウトドア気質だったということなので、現代人が思うよりもハツラツとした男性だったのかもしれません。
中島敦の性格は?
中島の知られざる性格について、もう少し詳しく見てみましょう。
先述の通り病弱で繊細なイメージがある中島。
七三分けの髪型に丸眼鏡の顔も、その印象を強くさせますよね。
左から「太宰治」「芥川龍之介」「中島敦」「宮沢賢治」
たまに、こうやって 母から絵を頼まれては、お金をもらう私…………。 pic.twitter.com/HcBJLfsOBu— KOGA. (@jsoulbr77647771) July 14, 2016
中国古典を題材とした硬派な作風も相まって、かなり真面目な人物という印象があるかもしれません。
教員として中島が受け持った教え子たちからは、礼儀正しい紳士的な雰囲気で好感を持たれていたということです。
痩身ではあったものの、よく通る声で話し、会話はウィットに富んでいたそうなので女子校ではモテたに違いありません。
実際、中島の授業の際は教卓に花が飾られていたそうです。
ただ温厚な人柄というよりは、冷静で誠実だったという方が適切のようで、作文の評価はかなり厳しかったと言われています。
教員としての姿はイメージ通りと言えますが、実は学生時代は麻雀に励み、レビュー小屋の踊り子の台湾興行を企画するほど遊びにも熱中していました。
その他、天文学、園芸、相撲、音楽など幅広い趣味を持っていたので、やはりイメージよりも行動派なのではないでしょうか。
さらに学生時代には熱烈な恋愛を経験し、女学校の生徒とも関係があったという噂もありました。
幼少期の孤独を埋めるために、恋や遊びにも全力で取り組む、情熱的な性格だったのかもしれませんね。
中島敦の子孫、妻と子供
ここからは中島の子孫はいるのか、妻や子供の情報を見ていきましょう。
中島が結婚した橋本タカという女性は、中島行きつけの麻雀店のスタッフでした。
中島敦が24歳で結婚した妻タカです。出会いは麻雀荘で中島は東京帝国大学の二年生、タカは麻雀荘で働いている女性従業員でした。後に女子校教師をしている頃、結婚していることや大きな子供がいることを同僚に驚かれたそうです。 pic.twitter.com/sEBTVYdBkf
— 愛書家日誌 (@aishokyo) May 5, 2016
出会いからわずか1週間で結ばれているので、中島がいかにプレイボーイだったかわかります。
しかしまだ大学2年生だった息子が結婚することに父が反対したこと、さらにタカに許婚がいたことから、すぐに結婚はしていません。
中島はやむなく、卒業して教員になってからも、ある程度落ち着くまでは別居するという条件でようやく結婚。
教員になってからもしばらくは別居生活だったため、中島の知人は彼を独身だと思っていました。
子供を生んで上京したタカですが、それからなぜか1年半ほどは横浜の中島と別居を続けています。
許婚とのトラブルが収まっていなかったという説が、今日では有力のようです。
2人の間には二男一女がいましたが、長女の正子は生後わずか3日で死亡。
長男・桓(たけし)と次男・格(のぼる)は成人したそうですが、正確な情報はわかりません。
ただ中島がパラオへ赴任する際、サイパンに立ち寄った際に、桓へ宛てた絵葉書が保存されています。
また1955年に文學世代へ掲載された『F』という作品が、中島桓という作者名のため、同一人物であれば息子も小説を書いていたことになりますね。
直系の子孫についてはわかりませんが、ミステリー作家の折原一さんは、中島の甥にあたります。
『傍聴者』(文藝春秋/1925円)、11月26日発売です。サブタイトルは「Not to Be Taken」。アントニイ・バークリーの『Not to Be Taken』(邦題は『(服用禁止』)が表紙の「者」の字の右下に転がっています。あれ、何でしょうね。https://t.co/btUdiwXPSJ pic.twitter.com/eWqm60kDWA
— 折原一 😷 (@1orihara) November 26, 2020
やはり中島家の血筋はインテリで、文才があるのが特徴のようですね。
早世の天才作家は、そのイメージとは裏腹に情熱的なプレイボーイだったのかもしれませんね。
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