詩集『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たした詩人・谷川俊太郎(たにかわ しゅんたろう)さん。
天才詩人の印象が強いですが、どんな家族のもとで育ったのでしょうか。
今回は谷川さんの家族から父、母を紹介し、生い立ちを見ていきましょう。
また自身の戦争体験に迫り、経歴をまとめます。
谷川俊太郎のプロフィール
本名:谷川俊太郎
生年月日:1931年12月15日
身長:不明
出身地:東京都杉並区
最終学歴:東京都立豊多摩高等学校
谷川俊太郎の家族、父、母。生い立ちについて
まずは谷川さんの家族の中から父と母を紹介し、生い立ちに迫ります。
谷川さんは東京府豊多摩郡杉並町に生まれた一人っ子でした。
父は哲学者で法政大学総長でもあった、谷川徹三です。
『哲学案内』など書籍も多数残している、有名な学者でした。
よくわかりませんが写真を撮れと言われた気がしました。ここにあるのは厚くても110ページ程度,最も薄いのは谷川徹三『哲学案内』86ページ。昔はこういう薄い文庫がたくさんありましたね。 #本の雑誌 #薄い文庫を狙え pic.twitter.com/YjmFRg0tk5
— かどくら・たかひろ (@kad0kura) April 22, 2020
京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、同志社大学などを経て法政大学で教鞭をとります。
1960年には法政大学から文学博士号を授与されました。
宮沢賢治や仏教に造詣が深く、哲学以外にも芸術や宗教など、扱う分野は多岐にわたった徹三。
文化功労者にも選ばれ、1989年に84歳で亡くなるまで、精力的に研究活動を行いました。
妻で谷川さんの母にあたる女性は、多喜子という名前です。
衆議院議員だった長田桃蔵の娘として生まれ、徹三と結婚後は彼を生涯支えました。
当時珍しい恋愛結婚だったようで、2年間で537通にも及ぶ手紙を交換し合っています。
谷川さんが編集した『母の恋文―谷川徹三・多喜子の手紙』は、両親の往復書簡集です。
多喜子はドイツ語で恋人を意味する「ゲリープテ」という言葉を使用するなど、しゃれたセンスの持ち主だったことがうかがえます。
教養ある両親の影響もあって、谷川さんは早熟な子供だったのでしょう。
幼少期は虚弱体質だったそうで、母に甘えて育ちました。
逆に父は離れの仕事部屋にこもっていることが多く、ほとんど交流していなかったといいます。
登校拒否になった際も怒られなかったので、むしろ父と距離があって良かったと感じたようです。
父が学者のため家には膨大な本があったものの、子供向けの書籍はなく、幼少期は読書に励んでいなかった谷川さん。
転機は高校在学中、同級生に誘われて詩を書き始めたこと。
卒業後も大学に進まず、詩を書きながら過ごしていました。
徹三さんはそんな息子の詩を、詩人の三好達治に見せます。
こうして三好に認められた結果、谷川さんは詩人デビューを果たしました。
詩では食べていけないため、絵本の執筆も行っていたとのことで、成り行きで本の世界へ入ったといえますね。
インテリの両親に育てられた、いかにも天才らしいデビューの流れといえるでしょう。
谷川俊太郎の戦争体験
次に谷川さんの戦争体験を見ていきます。
1945年5月、13歳だった谷川さんは、山の手空襲を体験しました。
「当時の少年たちは、戦争をある意味楽しんでいるところがあった」と語った谷川さん。
空襲の際も、焼夷弾が風でそれていく様子を眺めて安心するなど、死ぬ気がしなかったそうです。
ただ空襲翌日に、自転車で焼夷弾が落ちた場所へ行くと、たくさんの焼死体が目に入りました。
最も強烈な戦争体験は、焼死体を見た瞬間だったそうです。
しかしまだやんちゃな子供だったため、焼夷弾のかけらを爆発させる遊びを楽しんでいたといいます。
戦争体験者にしか理解できない感覚ですね。
子供の頃こそ戦争に対する実感のなかった谷川さんですが、詩人として大成後は積極的に平和を呼び掛けています。
戦争を防ぐには反省するのではなく、個人が地道に毎日の生活を送ることが大切と主張。
自身の戦争体験を原点に、ベトナム戦争の際は反戦をテーマに詩を書きました。
世界的音楽家の武満徹さんが曲を付けた本作、『死んだ男の残したものは』は、声楽曲および合唱曲として歌い継がれています。
戦争経験者が少なくなっていく中、谷川さんも経験者としての責任を感じてきたはずです。
戦争の虚しさが誰の胸にも響いてくる名曲を残した業績は大きいでしょう。
谷川俊太郎の経歴まとめ
最後に谷川さんの経歴をまとめます。
三好達治に認められ、詩人としてデビューした谷川さん。
詩作と共に作詞、脚本執筆など、文筆活動全般に取り組みました。
60年安保反対運動の際には、石原慎太郎さんや大江健三郎さんと「若い日本の会」を結成し、活動に加わっています。
62年、『月火水木金土日のうた』で日本レコード大賞作詞賞を受賞。
64年には記録映画『東京オリンピック』の脚本を手掛け、翌年からは絵本制作にも力を入れ始めます。
また『あしながおじさん』、『スイミー』、『マザー・グースのうた』など多くの名作を訳し、日本へ普及させました。
詩人としてだけでなく、文筆家として全分野に秀でていることがわかりましたね。
幅広い活動の根底には常に、反戦への強い思いが存在しているのでしょう。
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