谷崎潤一郎は妻・松子を崇拝。千代や丁未子との逸話&佐藤春夫に妻を譲渡

美しい文体で日本の伝統美を書き残した文豪・谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)。

実はその人柄は、『鍵』など一部の妖艶な作品から垣間見られるように、変態的だったと言われています。

そんな谷崎は、生涯に3人の女性を妻に迎えています。

日本人の小説家でそこまで多くの妻をめとるという事例は聞いたことがないので、今でも注目を集めるに十分なエピソードと言えるでしょう。

今回は、松子、千代、丁未子(とみこ)という、それぞれの妻の詳細を見ていきましょう。

また作家の佐藤春夫に、妻を譲渡したという情報についてもまとめていきます。

谷崎潤一郎のプロフィール

本名:谷崎潤一郎

生年月日:1886年7月24日

死没:1965年7月30日

身長:155㎝前後

出身地:東京市日本橋区蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋人形町)

最終学歴:東京帝国大学国文科中退

谷崎潤一郎は妻・松子を崇拝していた

では、谷崎の3人の妻の情報を詳しく見ていきましょう。

まずは松子という女性についてご紹介します。

谷崎の回想録を出していることからも、谷崎夫人と言えば、最後の妻・松子を思い浮かべる人も多いでしょう。

松子は1903年、日本最古の造船所である藤永田造船所の専務の次女として大阪に生まれています。


豪商の一族の四人姉妹だったことからわかる通り、谷崎の『細雪』に登場する四人姉妹の次女・幸子のモデルです。

根津清太郎という裕福な綿布問屋の子弟と結婚しますが、夫は愛人と駆け落ちするなど素行が悪かったと言います。

松子は裕福な家庭に育ったものの、没落し貧しい生活を余儀なくされていた時期、20歳年上の谷崎と出会いました。

1934年に根津と離婚、翌年に谷崎と結婚します。

これまではスキャンダラスな女性関係を展開してきた谷崎も、ようやく松子という理想の妻を得て落ち着きました。

しかし松子が妊娠した際、谷崎が「芸術的な雰囲気の維持」のために堕胎をさせたことが非難されるなどトラブルもあったようです。

ただ実際には松子の健康上の理由が堕胎の要因だったそうで、谷崎のわがままではなかったことがわかっています。

妻を崇拝して執筆した作品

松子といえば、谷崎が非常に崇拝していた妻としても知られています。

一般的に「崇拝」というと、尊敬しあがめること。

宗教の話題では違和感のない言葉ですが、恋愛や結婚の話題では少々異質な感じがします。

普通の恋愛とは一味違った谷崎の思考に、戸惑う人もいることでしょう。

ですが、妻を崇拝する強い気持ちは、谷崎の創作に大きな影響を与えています。


『盲目物語』や『春琴抄』など、女性崇拝を描いた作品は、松子のことを考えながら書いたのだとか。

こうした作品は名作として長く読み継がれていますよね。

最近になって新たにファンとなり、「初めて読んだ」という人も多いかもしれません。

これから読むという人は、妻を崇拝する気持ちで書いたという情報を、覚えておくといいかもしれません。

そうすると、「松子にも似たような気持ちを抱いていたかも」といった楽しみ方ができるでしょう。

昔すでに読んだことがある人も、松子の情報をあとから知った場合などは、また興味深く読めるのではないでしょうか。

妻に対する崇拝を意識しながら読み進めれば、新たな発見がありそうですね。

没後に妻への手紙や誓約書が公開される

2014年は、谷崎が書いた未公開の手紙が、遺族によって公開されています。

遺族がずっと保管していた288通もの手紙には、松子に宛てたものも含まれていました。

その中で谷崎が使っていたのは、「順市」という署名。

これは、松子の夫ではなく、奉公人でいたい気持ちからつけ名前なのだとか。


しかも手紙には、「御いぢめ遊ばして下さい」といったマゾヒスティックな懇願が書かれていました。

マゾヒズムを描いた谷崎作品を知っている人なら、「イメージどおり」と思ったのでしょうか。

やはり、普通の恋愛とは少し違う、崇拝の気持ちがあるようですね。

当時は、結婚の際に書かれた2通の誓約書も一緒に公開されています。

その内容は、自分の命や体、家族や収入など、あらゆるものを松子の所有にするというもの。

実際に送金を行ったと思わせる手紙も見つかっているので、ある程度は本気だった可能性もあります。

それほどまでに松子を崇拝したからこそ、後世に残る作品を書き上げることができたのかもしれませんね。

最初の妻・千代、2番目の妻・丁未子とのエピソード

次に、最初の妻である千代と再婚相手の丁未子について見ていきましょう。

1915年に谷崎と、前橋の芸者だった石川千代は結婚しています。

芸術のために平凡な生活を好まなかった谷崎は、気性の激しい初という芸者に惹かれていたものの、結婚はかないませんでした。

そこで妹の千代と結婚することになったのですが、妖艶な初と異なり、千代はごく平凡な女性で谷崎は不満だったようです。

そして千代の妹であるせい子に惹かれ始め、その思いはのちに小説『痴人の愛』へと昇華されました。

千代との間には谷崎唯一の実子である鮎子が生まれますが、夫婦仲は冷え切っており、1930年に離婚しています。

小説『蓼喰う虫』は、子供がいる手前なかなか離婚できない仮面夫婦が登場しますので、このときの体験がもとになっていることがわかりますね。


離婚の直後である1931年には古川丁未子を2番目の妻に迎えています。

大阪の女子専門学校で英文学を学んだ才女で、当時既に文壇で地位を確立していた谷崎に憧れていたようです。

谷崎も20歳年下の彼女の美貌に惹かれ、千代とまだ夫婦関係にあった時期から交際していました。

しかしお互いに憧れの存在ではあったものの、実際に暮らしてみると、パートナーとしては理想から程遠かったようです。

わずか3年で離婚、この間に谷崎は松子と出会っているので、三角関係だったことがうかがえますね。

その様子は小説『猫と庄造と二人のおんな』に描かれました。

3人の妻とのスキャンダルを、平然と小説に書いてしまう谷崎の図太さと、その芸術家気質は並外れていたのでしょう。

佐藤春夫に妻を譲渡

谷崎のスキャンダルで最も有名な事件とされるのが、作家・佐藤春夫への妻譲渡事件。

一体どんな事件なのか、詳細を見ていきましょう。

これは最初の妻である千代とのエピソードです。

千代は谷崎が、彼女の妹であるせい子に惹かれ始めたことが不満でした。

そんな彼女を不憫に思ったのが、作家の佐藤春夫です。

ついに三角関係になると、いったん谷崎は佐藤に妻を譲ろうとしますが、やはり撤回しました。

これがいわゆる小田原事件です。

しかし佐藤の千代に対する愛、そして谷崎の冷え切った夫婦関係により、谷崎側が正式に妻を譲渡することが決定。

1930年に離婚したのち、千代は佐藤と再婚しました。

このとき3人の連名で「千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す」としたためた声明文を発表します。

これによって「妻譲渡事件」として世間的に騒がれることになりました。

平凡より波乱を好む谷崎は世間の反応に満足だったのでしょうが、千代との娘・鮎子はこのスキャンダルのせいで女学校を退学になっています。


家族に迷惑をかけてでも、小説の材料になるような刺激を常に追求する文豪。

身内にいれば迷惑な存在ですが、あらゆる不祥事を名作に昇華してしまう才能は、やはり文豪の名にふさわしいと言えるでしょう。

関連記事
谷崎潤一郎の家系図、母が美人、子供、娘の鮎子について。子孫の現在

谷崎潤一郎の家、神戸芦屋と京都。幼少期を過ごした人形町。愛猫を剥製に

泉鏡花は天才? 尾崎紅葉との関係、結婚について。ゆかりの地、金沢と神楽坂

芥川龍之介の子供は3人の息子。妻・文との馴れ初め。恋人まとめ&子孫も有名人

三島由紀夫、娘や息子とのエピソード。結婚した妻は画家の娘&子孫の今

森鴎外、子供の変わった名前に由来あり。娘や息子がすごい&結婚歴まとめ

森鴎外の孫、子孫の今。家系図から見る家族。母について

コメント