歌誌『明星』の創刊者である歌人の与謝野鉄幹(よさの てっかん)。
著名な歌人・与謝野晶子の夫としても知られていますね。
今回は鉄幹の家系図を確認し、子孫がいるのか見ていきましょう。
また弟子の山川登美子、与謝野晶子との三角関係、鹿児島とのゆかりもご紹介します。
与謝野鉄幹のプロフィール
本名:与謝野寛
生年月日:1873年2月26日
死没:1935年3月26日
身長:不明
出身地:京都府岡崎町(現在の京都市左京区)
与謝野鉄幹の家系図
まず鉄幹の家系図を確認します。
鉄幹の父は僧侶の与謝野礼厳(よさの れいごん)です。
庄屋だった細見儀右衛門の次男として生まれ、幼少時に出家し浄福寺で修行、西本願寺で得度します。
現在の与謝野町で生まれたことにちなみ、与謝野姓を名乗るようになりました。
鉄幹の妻晶子は、老舗和菓子屋「駿河屋」を営む鳳宗七の三女です。
今日2月26日は歌人 #与謝野鉄幹 の誕生日。妻 #与謝野晶子 の方が人気ですが、「東西南北」など質実剛健な歌風で知られます。雑誌「明星」で晶子、#北原白秋、#石川啄木 などを見いだし、慶応の教授として #佐藤春夫、#堀口大学、#小島政二郎 などを育てました。 pic.twitter.com/a8QMWUjIhR
— 刺田比古神社 岡の宮(公式) (@sasutahikojinja) February 26, 2020
家業が傾いている中で生まれたため、両親からは疎まれていました。
また実の兄には、電気工学者の鳳秀太郎がいます。
東京帝国大学工学部で教授、電気学会で第8代会長を務めた工学博士です。
晶子は歌人のイメージがありますが、実はかなり数学が得意でした。
鳳家は理系分野に秀でた人々が多い家系なのでしょう。
家系図と子孫
鉄幹と晶子は1901年(明治34年)に結婚後、13人の子供をもうけました。
著名な子供は、次男の与謝野秀(よさの しげる)です。
#いだてん
与謝野秀、
与謝野鉄幹と与謝野晶子の次男で
与謝野馨氏の父親 pic.twitter.com/3qCEdumJgM— 天地百八❖ (@TenkouTisatu108) December 1, 2019
1928年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省へ入省。
その後、在フランス日本国大使館の外務書記生となりました。
1935年に、11歳年下の道子と結婚します。
道子は、球磨川電気社長として活動した坂内虎次の娘でした。
夫婦がもうけた2男3女には、各界の著名人がいます。
長男は2017年に亡くなった政治家の与謝野馨(よさの かおる)さん。
【#訃報】元財務相 #与謝野馨 氏が亡くなる(78歳) pic.twitter.com/YZMXAyJQrT
— footthink (@uclar_senal) May 24, 2017
次男はレジオンドヌール勲章を受けた金融家の与謝野達(よさの とおる)さんです。
う~ん、意外に知られていないのか、政治家・与謝野馨氏の弟の達(とおる)氏。在日フランス大使館のサイトの写真を載せておく。「BNPパリバ証券会社とデクシア銀行の顧問、与謝野達氏がレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章」時のもの。 pic.twitter.com/Awi0V4GN
— motonosuke (@motonosuke0328) January 24, 2012
三女は詩人で美術評論家、フランス文学者の与謝野文子さんで、フランス文学者の阿部良雄さんと結婚しました。
鉄幹夫婦の子孫は、政治、金融、文学など各分野で業績を残したといえますね。
山川登美子、与謝野晶子との三角関係
鉄幹の弟子で歌人の山川登美子は20歳の時、27歳の鉄幹に師事し、彼に恋い焦がれます。
小浜出身の歌人の山川登美子記念館。
記念館の人がすごく丁寧に案内してくださった。最後におすすめの十一面観世音さまを紹介してくださったので今から行きます。ありがとうございました😊 pic.twitter.com/tzmdKQyQ4o— 蟻馬次郎 (@jiro_ariuma) February 16, 2020
同時に21歳の晶子も鉄幹と交友していたため、まさに鉄幹は「両手に花」の状態。
登美子は旧小浜藩上級藩士の娘で、ミッションスクール卒業の可憐な才媛でした。
鉄幹は登美子を「白百合」、晶子を「白萩」と呼び、共にかわいがります。
ただ登美子と晶子は、決して対立関係になく、同じ短歌の道を歩む同志のような存在でした。
また奔放な性格の晶子に比べ、登美子は育ちがよく温厚な性格だったため、対立を避けられたのでしょう。
2人は共に淡い恋心を鉄幹に抱き続けます。
ところが登美子に縁談が持ち上がり、葛藤の末、彼女は結婚を選びました。
しかし夫は結核により、わずか2年後に死去。
登美子は日本女子大学に進学し、歌人として活動を再開、唯一の歌集『恋衣』を刊行するのです。
さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花
「みだれ髪」与謝野晶子誰がために摘めりともなし百合の花聖書にのせて祷りてやまむ
「恋衣」山川登美子百合の花は詠み手が多い。紫陽花は少ないが。 pic.twitter.com/oPoppnGfNg
— 咲良 (@sakuranotabi) June 26, 2016
しかし夫から感染した結核により、療養を経て29歳で亡くなりました。
短歌への熱い情熱を抱きながら、志半ばで世を去った登美子。
与謝野夫婦にとって、かつて共に短歌を作り続けた才能ある登美子は、忘れ難い存在だったことでしょう。
与謝野鉄幹と鹿児島とのゆかり
鉄幹は京都府出身ですが、鹿児島県ともゆかりがあります。
彼の父礼厳は、浄土真宗西本願寺の僧侶でした。
1873年(明治13年)、礼厳が鹿児島市にある西本願寺別院の布教顧問として現地に赴任。
8歳の鉄幹も、父と共に鹿児島市へ転居しました。
翌年には礼厳が加治木説教所の僧侶となったため、鉄幹も加治木町へ引っ越します。
1875年(明治15年)、礼厳が布教を終えると同時に、一家は京都へ帰りました。
つまり鉄幹は、幼少期の2年半ほどを鹿児島県で過ごしたのです。
帰京の際、一家は寺の境内に、付近の山から採ってきた小さなタブの苗を植えます。
帰郷から47年後、鉄幹は妻の晶子を伴い、鹿児島を訪れました。
そこで15メートルに成長したタブの木と再会するのです。
さらに与謝野夫婦は鹿児島県内を巡り、晶子は各地で350首の歌を詠みました。
鉄幹は妻と共に鹿児島を巡り、幼い日の思い出に浸ったのでしょう。
彼にとって鹿児島は、第二の故郷と呼べる土地だったのです。
与謝野夫婦は鹿児島の人々にとって、地元ゆかりの偉人という誇らしい存在であり続けるでしょう。
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