宮崎駿、息子・吾朗とのエピソード。孫のために新作&次男との関係は伏せている

スタジオジブリのアニメ監督として、長年活動を続けてきた宮崎駿(みやざき はやお)さん。

長男の吾朗さんも、『ゲド戦記』や『コクリコ坂から』の監督として活躍しています。

今回は吾朗さんとの関係や経歴を詳しく見ていきましょう。

さらに駿さんの孫がいるのか、さらに次男との関係に迫ります。

宮崎駿のプロフィール

本名:宮崎駿

生年月日:1941年1月5日

身長:164cm

出身地:東京都

最終学歴:学習院大学政経学部

宮崎駿、息子・吾朗との親子エピソード

1967年、宮崎駿さんと元アニメーターの朱美さんの間に生まれた吾朗さん。

幼少期から父の仕事を見学し、アニメ業界をのぞいてきました。

多忙で不在がちだった父との交流方法は、宮崎アニメを鑑賞することだったそうです。


また自然環境の保護に関心が強かった吾朗さん。

環境保護の重要性を訴えた『風の谷のナウシカ』を始め、父の作品から、自然を守ることの大切さを学んだのでしょう。

こうして信州大学農学部へ進学し、森林工学科で本格的に環境保護の勉強に励むのです。

東京の大学にも農学部はありますが、実際に自然と触れ合える信州で学びたかったのでしょう。

また大学では、児童文化研究会に所属し、子供向け人形劇の上演をしていたようです。

いかにも駿さんの息子らしい経歴ですね。

しかし大学卒業後、すぐに父と同じ道へ進んだわけではありません。

株式会社森緑地設計事務所に就職し、都市や公園の緑地化を進める事業に参加。

環境保護の志は一貫して変わらず、実際に仕事として取り組んでいたのです。

そんな中、ジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんから、ジブリ美術館設立の話を持ち掛けられます。

美術館の設計に詳しい人がおらず、設計事務所に勤めていた吾朗さんに白羽の矢が立ったのです。

父の計画に感銘を受けた吾朗さんは、設計事務所を退職し、1998年にスタジオジブリへ入社しました。

こうして「三鷹の森ジブリ美術館」のデザインを担当し、運営会社の株式会社ムゼオ・ダルテ・ジブリの取締役となります。

監督業に対する父からの言葉

アニメ監督として初めて担当したのは、2006年のジブリ映画『ゲド戦記』。

駿さんは当初、「あいつにできるわけがない。絵すら描けないはずだ」と反対しました。


しかし吾朗さんはやる気を証明するため、作品に登場する竜と主人公の絵を描いて見せました。

すると駿さんは黙り込み、その後「本当にやる気があるのか」と確認した上で、息子に監督を任せるのです。

こうして完成した『ゲド戦記』ですが、評価は賛否両論でした。

筆者が初めてこの作品を観たときは、手嶌葵さんが歌う『テルーの唄』に感動しただけで、あらすじは雑に思えました。

何よりアーシュラ・K・ル=グウィンによる原作の、深いテーマが、まったく盛り込まれていなかった点が不満です。

原作者自身も指摘していますが、人間は心の奥に抱える闇を、そう簡単に振り切れるはずがありません。

しかし映画内で主人公が、闇を振り切った上で、犯した罪を償いもせず幸せに生きている点に違和感がありました。

そもそも冒頭で主人公が殺人を犯す点について、その後、具体的な動機が語られません。

ショッキングでありながら、とくに必要と思えないシーンを盛り込んだ意味が、今でも理解できないのです。

もちろん、人同士のあたたかい交流やすばらしい音楽で、穏やかな気持ちになれる作品といえるでしょう。

しかし駿さんの作品群に比べれば、テーマを描き切れておらず、絵も大雑把な印象があります。

また2020年末、NHKで先行放送された3Dアニメ『アーヤと魔女』は、『ゲド戦記』以上に違和感ある吾朗作品でした。

何がテーマかわからず、結末すらありません。


原作が未完だったということもありますが、アニメ化するからには、独自色を出して完結させるべきでしょう。

『コクリコ坂から』や『山賊の娘ローニャ』では、映画賞を受賞し、高く評価された吾朗さん。

しかし『アーヤと魔女』では、テーマを消化しきれない短所が、『ゲド戦記』以来再び見られました。

かつて駿さんは息子に対し、「俺をもっと脅かせ」と言ったそうです。

監督として間もなくベテランの年代に入りますから、できればもう少し父を脅かす存在になって欲しいものです。

父親にダメ出しをする息子

駿さんと吾朗さんは、映画以外でも一緒に仕事をしたことがあります。

それは、前述の「三鷹の森ジブリ美術館」です。

駿さんは、自分の思い描くイメージをいろいろと提案。

吾朗さんや設計担当の関係者は、そのイメージをどう再現するか頭を悩ませたそうです。

しかし結局、駿さんのアイディアがすべて採用されたわけではありません。

吾朗さんがしっかりと検討し、実現不可能なものについては明確に反対したからでした。

鈴木敏夫さんによれば、駿さんの提案は空想の産物にすぎないこともあるのだとか。


設計の知識がある吾朗さんは、本当にできるかどうか、専門的な視点から検討していたのでしょう。

提案の中に曖昧な点があると、断固として拒否していたそうです。

法律上の問題で無理なものを指摘した際は、納得できない駿さんが食ってかかり、かなり白熱した議論を繰り広げたこともあったそうです。

父の提案でも、吾朗さんはプロとして厳しくジャッジしていたんですね。

そんな吾朗さんの様子を見て、とても頼もしく感じたという鈴木さん。

運営まで見事にやってくれたことは、高く評価していたそうです。

親子の共同作業

2011年に公開された『コクリコ坂から』は、吾朗さんが手がけた2作目の長編。

駿さんも企画と脚本、ポスタービジュアルなどで参加しており、親子が協力して完成させた作品として知られています。

制作中は鈴木さんが間に入り、駿さんからの助言を吾朗さんに伝えたりしていたようですね。

当時の駿さんは、2本目の監督作品こそ成果が問われると考え、「ダメだったら解任の可能性も」と発言していたのだとか。

吾朗さんにはプレッシャーがかかったかもしれませんが、前述のとおり2021年には『アーヤと魔女』が公開されています。


『コクリコ坂から』は、第35回日本アカデミー賞で最優秀アニメーション作品賞を獲得した作品。

世間の評価も決して低くなかったことがわかります。

ただ、『アーヤと魔女』の監督をどうするかは鈴木さんに任せていて、吾朗さんの名前は出さなかったという駿さん。

かつての『ゲド戦記』と同じく、吾朗さんには荷が重いと思っていたそうです。

そういえば『コクリコ坂から』では、厳しいダメ出しもしていましたね。

しかし『アーヤと魔女』では、「結構面白い」「手放しでほめたい」と発言した駿さん。

賛否両論の作品ではありましたが、良かったところにも注目していたのかもしれません。

孫のために新作を

2008年8月、吾郎さんに長男が生まれています。

2024で16歳になる孫を、駿さんは大変かわいがっているという情報がありました。

駿さんは2013年の『風立ちぬ』を最後に、長編アニメ監督を引退すると発表しています。

しかしその後、引退を撤回し、新作を準備しているという情報が流れました。

鈴木プロデューサーによると、「孫のために新作を作っている」とのこと。


この発言は、冗談のつもりだったかもしれません。

しかし駿さんに、「自分の作品をもっと孫に観て欲しい」という思いがあるのは確かでしょう。

その後公開されたのが、2023年の『君たちはどう生きるか』でした。

きっと父と祖父のアニメ作品は、一通り観ていることでしょう。

駿さんとしては、孫に褒めてもらえるよう、まだまだ頑張りたいのかもしれませんね。

宮崎駿と次男の関係

宮崎駿さんと次男の関係について見ていきます。

次男の宮崎敬介さんは1970年生まれの版画家です。

武蔵野美術大学の造形学部に学びつつ、独学で木口木版画を開始。

「宮崎駿の息子」という事実を伏せ、活動を続けてきました。

『耳をすませば』に登場する、『牢獄でヴァイオリンを作る職人』は敬介さんが映画のために作った木口木版画です。

偉大な父の存在を伏せ、あくまで実力で勝負してきたのでしょう。

だからこそ表立って、親子で親密に交流することはありませんでした。

駿さんも次男の思いを理解し、なるべく距離を置いていたのかもしれません。


それでも敬介さんは、父の作品をより良くするため、秘かに協力していたのでしょう。

偉大なアニメ監督のDNAを継いだ子供たちは、父とは違う形で認められようと、今後も精進し続けるに違いありません。

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