加藤治子に子供はいない。遺産の現在(2024)。2人の夫&樹木希林との距離感

『寺内貫太郎一家』のお母さん役として親しまれた、昭和の名女優、加藤治子(かとう はるこ)さん。

後年は『魔女の宅急便』や『ハウルの動く城』で声優として、品格ある老婦人の役を務めました。

2024年で死後9年となりますが、子供はいたのか、遺産は現在どうなったのかに迫ります。

また2人の夫について、さらに樹木希林さんが、治子さんと距離を置いていたという情報を確認します。

加藤治子のプロフィール

本名:加藤治子

生年月日:1922年11月24日

死没:2015年11月2日

身長:151cm

出身地:東京都

最終学歴:松竹少女歌劇学校

加藤治子に子供はいない

治子さんは生涯で2度結婚し、いずれも離婚に至りました。

どちらの結婚でも子供をもうけていません。

乳がんにより「余命5か月」と伝えられた87才の時点で、母と姉も亡くなっており、天涯孤独でした。

元夫の娘は連れ子ではない

2人目の夫である俳優の高橋昌也さんは、治子さんと離婚した後、飲食店経営の一般女性と1974年に再婚しています。


そして、翌1975年に長女が誕生しました。

夫の娘という情報から義娘を想像した人もいるかもしれませんが、治子さんと結婚したときはまだいなかったわけです。

子供ができたのは離婚してからなので、夫に連れ子がいたという話ではないんですね。

元夫の娘であることは確かですが、治子さんにとっては他人でしょう。

離婚後の高橋さんと交流があれば、どこかで顔を合わせている可能性もありますが、詳しいことは不明です。

息子の噂は役のこと?

治子さんの子供については、ネット上で「息子は今どうしている?」といった話題を見かけた人もいるかもしれません。

まるで息子が存在していて、2024年現在も普通に暮らしているかのようですね。

ですが、前述のとおり子供の出産はしていない治子さん。

義理の息子にまつわる情報もなく、息子などいないことは確かです。

それなのに近年の様子が話題になるのは、役の影響ではないでしょうか。

治子さんは、女優として何度も母親の役を演じています。

訃報が流れた際は、ドラマで息子役を演じた辰巳琢郎さんが「7年間、不肖の息子として」と発言したこともありました。


作品の中で長く親子の関係を築いてきたということですね。

もちろん、ドラマや映画で親子だからといって、実の親子と思う人は少ないはず。

悪役の俳優を本当に嫌う話などもありますが、多くの人は混同などしないでしょう。

しかし、記憶が混ざることはあるかもしれません。

母親役が強く印象に残っていると、治子さんの情報を思い出そうとしたとき、「確か息子がいたはず」と間違えることもありそうです。

ドラマの影響で、存在しないはずの息子が紛れ込んでしまうわけですね。

人によっては、「加藤治子に娘が」ということもあるでしょう。

それほどに母親のイメージが強いとすれば、治子さんの高い演技力も影響したのかもしれません。

遺産の現在(2024)

遺産については、5人の知人に相続しています。

個人事務所の取締役とその親友、治子さん自身の友人2人と、遠縁の親戚1人の合計5人です。

仕事やプライベートで支えてくれた5人は、彼女にとって大切な存在だったのでしょう。

相続先を決めた治子さんは、世田谷区の自宅を処分して生じた遺産を分割するよう、遺言書にしたためます。

そして彼女の死後、遺言通りに自宅は処分され、分割されたお金は5人が受け取りました。

家族がいなかった「おひとりさま」の治子さんは、世にも珍しい、血のつながりがない人々への相続を行ったのです。

2024年現在、5人は治子さんへの感謝を胸に過ごしていることでしょう。

2人の夫、加藤道夫と高橋昌也

治子さんには、かつて2人の夫がいました。

1人は劇作家の加藤道夫さん。

もう1人は、前述のとおり俳優で演出家の高橋昌也さんです。

夫との悲しい別れ

道夫さんは1918年生まれで、フランス演劇に影響を受けた作品を数多く残しました。


名作戯曲『なよたけ』に加え、代表作『思ひ出を売る男』は劇団四季のレパートリーとして知られています。

道夫さんが演劇に目覚めたのは、慶應義塾大学予科在学中でした。

当初は英語劇を上演していたものの、フランス文学科の芥川比呂志さんと交流し、フランス演劇の影響を受けていきます。

1944年、陸軍省通訳官となり、マニラやニューギニアへ出征しました。

終戦まで過ごしたソロンで、マラリアに感染し、野戦病院で生死の境をさまよう過酷な体験をしています。

回想録によると戦地で故郷を懐かしがっていた時、脳裏に浮かんだのが、当時滝浪姓だった治子さんの姿だったそうです。

戦前から、演劇活動を通して交流があった2人。

道夫さんは戦地で初めて、本当に恋しい女性の存在を認識し、無事に帰国したら彼女と結婚すると決めたのです。

1946年、無事に帰国を果たし、すぐに演劇活動を再開。

そして、新演劇研究会のメンバーだった治子さんと結婚しました。

しかし道夫さんは、マラリアが再発し、苦しい時期が続いたようです。

回復後は母校慶応義塾で教師を務め、貧しい生活の中でも働きながら、戯曲や評論を執筆。

1949年3月、文学座が上演した戯曲『挿話』が、初上演作となりました。

これをきっかけに、加藤夫婦は文学座座員となるのです。

以降、道夫さんの戯曲が多数上演され、治子さんは主役級の女優として活躍。

しかし道夫さんは、胸を患い度々療養します。


さらに精神面も不安定だったようです。

正確な理由は不明ですが、戦時中の悪夢に苦しんでいた可能性が高そうです。

また優しく繊細な性格だったため、戯曲が不評だと、気に病んで落ち込むことも度々あったのでしょう。

交流のあった三島由紀夫は道夫さんについて、「あそこまで心のきれいな人を見たことがない」と語っています。

道夫さんはやがてキリスト教に傾倒し、救いを求めますが、うつ傾向は悪化していきました。

そして1953年12月22日、自宅の書斎で首を吊り、自ら命を絶つのです。

夜遅く帰宅した治子さんが、夫の遺体を発見。

妻にあてた遺書には、幼少期に誰かからわいせつ行為をされて以来、「地獄の苦しみ」を抱いていたとつづられていました。

「自分はわいせつ行為で心身が汚れているため、キリスト教によって救われる資格がない」と考えたのかもしれません。

道夫さんは「カトリック入門書」の、「自殺は最大の罪悪である」という一節に、わざわざ傍線を引いていました。

しかし「自分は天国へ行く資格がない」と諦め、“最大の罪悪”をあえて犯してしまったのでしょうか。

自殺理由は永久に謎のまま。

いずれにせよ、治子さんは絶望の底に落ち込んだことでしょう。

2回目の離婚後は独身

道夫さんの死から5年後の1958年、治子さんは高橋昌也さんと再婚します。

63年、夫婦は「劇団雲」の創立に加わり、共に仕事に取り組んでいきました。


しかし多忙により、すれ違いが生じたようで、73年に離婚。

高橋さんはその後、2度再婚しますが、治子さんは生涯独身となりました。

自宅で1人、ふと2人の夫のことを思い、寂しさに駆られる瞬間も多かったかもしれませんね。

樹木希林と距離を置いていた?

『寺内貫太郎一家』で、治子さんはお母さん役でした。

おばあさん役の樹木希林さんより、実年齢は約20歳上だったそうです。

2人はCMでも共演していますが、希林さんの方が距離を置いていたという情報がありました。

どうやら希林さんは、演出家の久世光彦さんから「自分がいちばん」と認めてもらいたかったようです。

しかし久世さんは、加藤道夫さんのファンだったため、治子さんにインタビューする際はかなり熱心でした。

彼の文学青年気質が、向田邦子さんや、治子さんとのつながりを生んだようです。

しかし希林さんはあくまで役者として芝居に励み、文学に傾倒することはありませんでした。

そのため彼らと距離を置き、輪に入ろうとしなかったとされています。

彼女の孤高な性格を物語る、信憑性の高いエピソードかもしれませんね。

しかし共演を通して、先輩女優である治子さんを尊敬していたことは事実でしょう。

治子さんの死後には、「加藤さんの人生、上出来」と絶賛。


「加藤さんがいなければ、役者を続けていなかったかも」と振り返り、敬愛の念をにじませました。

昭和を代表する大女優2人は、今ごろ天国で、大好きな芝居の話に花を咲かせていることでしょう。

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