強烈な風貌とこだわりの強い役作りで、昭和の映画史に大きな足跡を残した三國連太郎(みくに れんたろう)さん。
『釣りバカ日誌』で演じた、優しいスーさんのイメージがあるかもしれませんが、若い頃は濃い顔立ちで知られる怪優でした。
今回は三國さんがハーフという噂、彼の生い立ち、戦争体験に迫ります。
さらに家系図をまとめていきましょう。
三國連太郎のプロフィール
本名:佐藤政雄
生年月日:1923年1月20日
死没:2013年4月14日
身長:178cm
出身地:群馬県、静岡県
最終学歴:旧制豆陽中学(現在の静岡県立下田高等学校)中退
三國連太郎はハーフ?
若い頃の三國さんの顔は、日本人離れしたかなりの二枚目でした。
若い頃の三國連太郎のかっこよさ。 pic.twitter.com/OfBq2WaaSF
— 唐沢なをき (@nawokikarasawa) January 23, 2021
黒々とした豊かな髪、通った鼻筋、大きな瞳に加え、180㎝近い高身長の持ち主ですから、ハーフだとしても納得できます。
また、「ジョージ・クルーニーに似ている」と感じる人もいるようです。
#あと一枚で揃うのに違うカードが来た時 #三國連太郎 氏で4枚揃うと思いきや、最後は #ジョージクルーニー 氏、‼です😀😀 pic.twitter.com/mrPZdp2Hqo
— nori (@NorioUejima) March 20, 2018
両親についてですが、父親の詳細はわかっておらず、三國さん自身も実際の父親と面識がなかった可能性が高いです。
母親は16歳から、広島県呉市の海軍軍人宅にて女中として働いていました。
軍人宅で三國さんを身ごもったそうですから、おそらく海軍軍人が父親だったのでしょう。
主人の子を身ごもった女中は、当然追い出されてしまいますが、沼津駅で電気工事の職人と出会いました。
その職人と群馬県太田市で結婚し、翌年に三國さんを出産。
職人は三國さんにとって、育ての父親となりました。
しかし育ての父親は暴力的だったそうです。
三國さんは家出をくり返し、中学を退学後は、中国へ密航して一時期は弁当売りとして働きました。
ここまで経歴を見てきた通り、両親は共に日本人だった可能性が高いでしょう。
三國さんはハーフではないことになりますね。
三國連太郎の兄弟
三國さんの関連キーワードに、「兄弟」があります。
兄弟がいるのか、気になって調べた人が多いのでしょう。
ただ先述の通り、三國さんは実の父親と面識がない、いわば私生児でした。
父親が別の女性との間に子供をもうけていた場合、異母兄弟がいる可能性は高いでしょう。
ただ父親は海軍軍人だった可能性こそありますが、詳細は不明です。
ではなぜ、三國さんと「兄弟」が関連づけられたのでしょうか。
三國さんには、映画『異母兄弟』という代表作があります。
『異母兄弟』には伝説的エピソードがあるため、「兄弟」というキーワードも、本作によって関連づけられたのかもしれません。
異母兄弟 #1日1本オススメ映画 現実には徴兵拒否した三國連太郎が帝国軍人の傲慢と独善、人間性の歪みと差別意識の醜さ、老残と落魄をとことんまで演じ切る。それが単純な憎まれ役でなくだんだんどこかで見たような人間に見えてくるところまで降りてくる凄さ。 pic.twitter.com/U3CJr8MsNR
— 小暮 宏 (@yapoono6) March 31, 2017
三國さんは本作で、冷酷な陸軍将校を演じて強烈なインパクトを残し、名優としての地位を確立しました。
当時33歳でしたが、老け役を演じるため、上下の歯を10本抜いたというエピソードは語り草になっています。
役作りへのこだわりが人一倍強かった三國さん。
実の父親に捨てられ、育ての父親から暴力を受けるという壮絶な経験をしたことも、こだわりの強さに影響しているかもしれません。
「自分は不要な人間」という感情を抱きながらも、「これで終わってたまるか」という気持ちが芽生えていたはずです。
やがて「誰よりも不要な人間」である自分には、「誰よりもおぞましい人間」を演じる能力があるはずだと考え始めたのでしょう。
壮絶な経験が、『異母兄弟』での迫真の名演につながったのかもしれません。
生い立ちと父親の暴力と放浪癖
普段は優しかった育ての父親ですが、暴力をふるうこともありました。
三國さんは父親から逃げるため、幼い頃から家出癖がついてしまったようです。
中学を2年目で退学したのちは、下田港から密航して、青島に渡りました。
釜山でしばらく弁当売りをしたのち、帰国してからも各地を転々。
皿洗いやペンキ塗りなど、さまざまな仕事を経験しています。
戦争で徴兵が決まった際も、同居相手の女性と共に貨物列車で逃亡。
計画は失敗したものの、彼の「どんなに苦しくても生きたい。だからこそ逃げてやる」という気持ちがうかがえますね。
過酷な生い立ちが、「嫌なことからは逃げて、生き延びる」という人生哲学を形成したのでしょう。
三國連太郎の戦争体験
三國さんの戦争体験について、より詳しく見ていきましょう。
1943年12月、大阪で働いていた三國さんのもとに、徴兵検査の通知が届きます。
甲種合格したところへ、母から手紙が届きました。
「親不孝を重ねたお前だが、これでやっと天子様にご奉公できる」と記されていたそうです。
しかし三國さんは「戦争で死にたくない」と考え、中国行きの計画を記した手紙を母へ送り、愛人と逃亡します。
九州から中国へ向かう予定でしたが、佐賀県呼子で憲兵に発見され、静岡の歩兵第34連隊へ入隊しました。
実は母親が憲兵に、息子からの手紙を提出したことで、逃亡が明るみに出たそうです。
その後三國さんは、中国の前線へ向かう途中で熱病にかかり、こん睡状態に陥りました。
死んだと勘違いされた結果、焼き場に運ばれたそうですが、焼かれる直前に目を覚ましたそうです。
結果的に戦闘へ参加することなく、漢口の兵器勤務課で働いていた際、終戦を迎えました。
激戦地へこそ向かわずに済みましたが、他に類を見ない、壮絶な戦争体験といえますね。
三國連太郎の家系図まとめ
三國さんの家系図は、非常に面白い様相を呈しています。
4度の結婚歴がありますが、3度目の妻との間に息子が生れていました。
3度目の妻は、神楽坂の一流芸者、石原とし子さんです。
そして息子は、1960年生まれの俳優・佐藤浩市さん。
佐藤浩市に抱きしめられながら「大丈夫だよ、あいつはクビにしたから」って言われたい pic.twitter.com/MJEqZx46wK
— カブ (@tuuun_nuuut_020) December 16, 2020
かつての父と同じく、芸能界の第一線で活躍し続けている名優です。
モデルとの結婚と離婚を経て、1993年に女優の広田亜矢子さんと再婚しました。
亜矢子さんは、故・原田芳雄さんの長男である原田喧太さんの、妻の姉にあたります。
遠縁ではありますが、佐藤家と原田家には、つながりがあることがわかりました。
また佐藤さんと亜矢子さんの息子は、俳優の寛一郎さん。
ㅤ
៚ˎˊ˗ Kanichiro
寛一郎Tokyo Revengers
東京リベンジャーズ∴ hakkai
ㅤ ㅤhttps://t.co/6rq6hijvrK pic.twitter.com/SXJatlUg4p— vael (@kalopscia) February 10, 2021
『心が叫びたがってるんだ。』や『ナミヤ雑貨店の奇蹟』などの映画に出演しています。
2つの俳優一家の血を継ぐ、期待の若手俳優です。
三國さんの一族は、優れた俳優の血が入り混じった、輝かしい家系図を構成していました。
昭和の怪優の濃い血筋は、まだまだ薄れそうにありませんね。
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