三國連太郎、息子・佐藤浩市との確執と和解。共演は少ない&孫・寛一郎も俳優

個性派俳優として数々の受賞歴があり、映画監督としても手腕を発揮した三國連太郎(みくにれんたろう)さん。

息子の佐藤浩市さんとは長らく確執が伝えられていましたが、晩年には親子関係は変化をみせていたようです。

二人が親子役で共演して話題を呼んだ作品や、絆を取り戻すきっかけとなった孫についてみていきます。

三國連太郎のプロフィール

本名:佐藤政雄

生年月日:1923年1月20日

死没:2013年4月14日

身長:178cm

出身地:群馬県、静岡県

最終学歴:旧制豆陽中学(現在の静岡県立下田高等学校)中退

三國連太郎と息子・佐藤浩市の確執は和解へ

三國さんは女性との華やかな話題が絶えない俳優でした。

なかでも太地喜和子さんとのロマンスは有名ですが、結婚も四度しており、佐藤浩市さんは三番目の妻で芸姑のとし子さんとの間に誕生した子供でした。

名前の「浩市」は、親交のあった稲垣浩監督と市川崑監督から一字ずつもらって命名したものです。


佐藤浩市さんが小学生の時に父は家を出てしまい、まもなく両親は離婚。

三國連太郎さんが伊豆の十国峠に佐藤さんを連れて行き、今日でお別れだと告げたというエピソードは三國さん自身が何度も披露し、また評伝などでも語り継がれてきました。

父と同じ世界に飛び込むことを息子が決意した時は、「親子の縁を切ろう」と突き放したといいます。

親子共演となった『美味しんぼ』の製作会見では、お互いを他人行儀に名字で呼び、役者観をめぐって意見が衝突するなど溝の深さが浮き彫りに。

メディアも二人の確執をたびたび報じてきました。

そんな親子関係が徐々に雪解けの兆しをみせたのは2000年代に入った頃のこと。

きっかけとなったのは、佐藤さんと妻・亜矢子さんとの間に生まれた寛一郎さんだったようです。

寛一郎さんの誕生で、それまでの頑なな態度が一変したという三國さん。

孫の誕生日や運動会に駆けつけるようになり、親子間の距離も縮まって、いつしか自然に和解していたといいます。

よく「子はかすがい」といいますが、この場合は孫が親子のかすがいになったわけですね。

2008年に共演したANAのCMでの仲睦まじい姿を覚えている人は多いでしょう。

実はそこまで不仲ではなかった?

前述のとおり、親子の確執は各メディアでも報道されてきたこと。


そんな報道から、「本当に犬猿の仲」というイメージを抱く人も多いでしょう。

しかし佐藤さんは、週刊誌の取材で「芝居の話はよくした」と語ったことがあります。

仲が悪すぎて会話もないような想像をしていた人には、意外だったかもしれません。

ですが佐藤さんによれば、実際はそこまで険悪でもなかったのだとか。

距離感は確かにあったそうですが、親子の会話は普通にできていたようです。

そんな関係は、佐藤さんの幼少期のエピソードからも伝わってきます。

当時、親子3人の食事がなかなかできないことを苦痛に感じていたという佐藤さん。

もっと仲の良い普通の家庭を望んでいたのでしょう。

三國さんが家族を捨てて家を出たときも、納得できない気持ちは強かったのかもしれません。

しかしその一方で、父親にあこがれも抱いていたようです。

映画の撮影所に連れて行ってもらったとき、役者として働く父親を「かっこいい」と思ったのだとか。

そんな経験から、佐藤さんの夢は父と同じ役者になっていきます。

仲良しとはいえない親子だったかもしれませんが、徹底的に嫌いあっていたわけではないんですね。

父親から息子へのアドバイス

昔の佐藤さんは、監督と衝突することが多かったそうです。


納得できないシーンなどがあると、「なんでこうなる」と威圧的な態度で監督に詰め寄ったのだとか。

三國さんも、監督との議論はとことんやるタイプだったそうです。

しかし、そうした熱いやり方には反発もあるもの。

佐藤さんも、スタッフから「生意気な役者だ」と陰口を言われるようになったそうです。

そんな噂を聞き、「生かされてあればこそ」と一筆したため、息子に渡したという三國さん。

自分も同じようなやり方をしていたものの、息子のことは心配だったのでしょう。

その後の佐藤さんは、ベテランのスタッフから諭されたこともあり、角が立たない振る舞いを意識するようになったそうです。

こうしたエピソードからも、極端に不仲だったわけではないことが伝わってきますね。

三國連太郎、息子との共演はわずか数作品

親子の確執が取り沙汰されたのは、共演の少なさによるところも大きいと思います。

佐藤浩市さんによると、共演作は『人間の約束』『美味しんぼ』『釣りバカ日誌19』『大鹿村騒動記』の4作のみ。

初共演は1986年の『人間の約束』ですが、同作では直接関わり合うシーンはごくわずかでした。

10年後の『美味しんぼ』では、原作者の要望で三國連太郎さんが海原雄山役を演じることに。

山岡士郎役に佐藤浩市さんを指名したのは三國さんだったそうです。


この時、父は73歳、息子は35歳。

作中の親子役のキャスティングが実の親子ということで話題を集めました。

当時を振り返り、ついに赤紙がきたという心境だったと語る佐藤さん。

かたや三國さんは、波長が合ったために言葉はいらなかったとご機嫌だったそうです。

同じ映画に出ることに対して、二人ともハードルを上げすぎたと語る佐藤さん。

若い頃の父ともっと芝居の話をしたり、共演をしておくべきだったという後悔は、やはり心のどこかにあるそうです。

三國連太郎の孫は注目の若手俳優・寛一郎

三國連太郎さんに何人の孫がいるのかははっきりとわかっていません。

佐藤浩市さんは二度の結婚歴があり、それぞれ1児をもうけています。

1993年に再婚した妻との間に1996年8月16日に誕生したのが俳優の寛一郎さんです。

芸名の「寛一郎」は本名で、寛大な心を持ってほしいという願いをこめたもの。

名字の「佐藤」をあえてつけなかったのは、己の力で勝負したいという気概の表れでしょうか。

祖父と父の存在が大きすぎるせいか、当初は同じ道に進むことを拒んでいたという寛一郎さん。


とはいえ、やはり2代にわたる名優の身近で成長した影響は大きかったようです。

役者業の魅力に目を背けることをやめたのはDNAのせいだったのかもしれません。

芸能界入りの直接的なきっかけは、祖父の葬儀で寛一郎さんの醸し出す雰囲気に惹かれた映画関係者がスカウトしたことでした。

息子のデビューをまったくサポートしなかった佐藤浩市さんですが、佐藤さんもまた父の後押しを受けることなく自らオーディションを受けて回った過去があります。

寛一郎さんがお見舞いに訪れると、心から嬉しそうに顔をほころばせていたという三國連太郎さん。

孫の俳優デビューを見届ける前に惜しくもこの世を去ってしまいました。

役者稼業が3代続いたことについて、天国で苦笑いを浮かべているかもしれませんね。

三國連太郎の伝説エピソード

日本映画を牽引した名優の一人であり、怪優とも称された三國連太郎さん。

芸名は岸田國士原作のデビュー作『善魔』で演じた新聞記者・三國連太郎の役名をそのままつけたものです。

10代の頃から皿洗い、工員、船員などさまざまな職業を転々とした苦労人でもありました。

いわゆる役者馬鹿であり、その役作りの徹底ぶりはあまりにも有名です。

34歳で老人役に挑んだ際に、麻酔なしで歯を10本抜いた話も怪優伝説のひとつ。


息子の佐藤浩市さんが暴露した後日談によると、三國さんは撮影終了と同時に後悔の念がわきあがり、こんなことはしなければよかったとこぼしていたそうです。

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