三國連太郎、妻との結婚歴。林政枝や石原とし子は元妻。太地喜和子と不倫&最後の妻は友子

『飢餓海峡』や『利休』など、数々の名作映画で強烈な印象を残した三國連太郎(みくに れんたろう)さん。

名優というイメージは強いものの、私生活について詳しい人は多くないかもしれません。

今回は三國さんの妻、結婚歴に迫ります。

妻として名前の挙がる、林政枝さん、石原とし子さん、太一喜和子さんについて見ていきましょう。

また最終的な妻はとし子さんなのか確認します。

三國連太郎のプロフィール

本名:佐藤政雄

生年月日:1923年1月20日

死没:2013年4月14日

身長:178cm

出身地:群馬県、静岡県

最終学歴:旧制豆陽中学(現在の静岡県立下田高等学校)中退

三國連太郎、妻との結婚歴は4回もある

三國さんは生涯で4度結婚しました。

しかし最初の結婚は、何と偽装結婚だったそうです。

1943年から、中国の前線で兵役に就いていた三國さん。


敗戦すると収容所に入り、自作の化粧品販売で日銭を稼いでいたそうです。

復員の際には、独身者より妻帯者の方が、優先的に引き上げ船へ乗れることを知ります。

そこで三國さんは、本名の佐藤と同じ姓の女性を探し、1946年4月に偽装結婚。

同年6月、もくろみ通り、引き揚げに成功しました。

引き上げ後は、宮崎県宮崎市にあった妻の実家で暮らします。

宮崎交通へ入社し、2年間バスの整備士として働きました。

しかし1948年、妊娠中の妻と離婚し、鳥取県倉吉に転居。

単調な暮らしに飽きてしまったのか、鳥取県の農業組合に入り、農村工業課を新設して農業に励みます。

その後も、三國さんは複数の女性と関係を結ぶことになるのです。

結婚歴にコンプレックスが影響?

三國さんの派手な結婚歴を初めて知った人は衝撃を受け、「なぜそんなに?」と思うかもしれません。

奔放な結婚歴の背景には、三國さんのコンプレックスが影響しているとの説もあるようです。

いわゆる短小を気にしていたという三國さん。


ただ、ゴシップ記事に出てくる芸能関係者によれば、実際はごく一般的なサイズ。

となると、単なる思い込みなのかもしれません。

ですが三國さんはとても気にしており、大浴場でもギリギリまで下着を脱がなかったというエピソードがあります。

関係者の話だと、この深いコンプレックスがあったため、女性との関係が長く続かなかったというのです。

実際にそんな理由だったかは不明ですが、コンプレックスがあったこと自体は間違いないと思われます。

ネットの下世話なデマと思った人もいるかもしれませんが、三國さんは自ら語っていたようです。

インタビュー記事や著書を読んだ人なら、「昔から知っている」という人も多いのではないでしょうか。

コンプレックスが本当にあったなら、結婚歴に影響した可能性も否定はできないでしょう。

妻を信じきれなかった?

三國さんのネガティブな考え方は、かなり強かったのかもしれません。

前述の芸能関係者によれば、相手の女性をどうしても疑ってしまう癖があったそうです。

サイズに不満を感じていないように見えても、演技の可能性を心配していたという三國さん。

3人目の奥さんと別れたあとも、そんな不信感をぬぐえない様子だったそうです。

どうしても相手の女性を信じられない三國さんは、安定した生活を続けることができず、別の女性に興味を抱いてしまうのだとか。

どこまで本当の話かわかりませんが、三國さんはとても苦しい思いをしていたのかもしれませんね。

再婚した林政枝とのエピソード

最初の奥さんと別れたあと、三國さんが再婚した相手は林政枝さん。

資産家の娘でしたが、どこの馬の骨とも知れない三國さんとの結婚は、家族に大反対されたようです。

そして三國さんは、妻を大切にするどころか、闇商売で一儲けしようと単身上京してしまいます。

事業は失敗しますが、その後、東銀座でスカウトされ松竹に入社。

1951年、映画『善魔』でスクリーンデビューするのです。


すっかり家庭を放棄していたためか、デビュー翌年には政枝さんと離婚しました。

彼女は、家庭を捨てて映画スターになった夫の姿を、複雑な気持ちで眺めていたかもしれません。

ちなみに前述のコンプレックスは、この頃から始まったという説もあります。

きっかけは、政枝さんの浮気現場をうっかり目撃したことなのだとか。

当時の三國さんは、夜の営みで満足させられなかったことが原因と考え、コンプレックスを抱いたというのです。

三國さんが受けたショックは、それほどに大きいものだったのかもしれませんね。

三國連太郎と石原とし子

映画スターとなり、多くの女優との関係を噂された三國さん。

しかし3度目の結婚相手は、女優ではなく、神楽坂の一流芸者でした。

石原とし子さんという女性で、映画『戦国無頼』の撮影中に出会ったそうです。

1957年に再々婚、60年に生まれた男児が、俳優の佐藤浩市さんでした。

今や父の知名度を超えつつある、ベテラン俳優の佐藤さんですが、父とは長年不仲だったといわれています。

というのも62年、再び三國さんは家族を捨て、別の女性の元へ去ってしまったのです。

三國連太郎と太地喜和子

妻と息子のもとを去り、交際し始めた相手は、女優の太地喜和子さんでした。

まだ19歳の新人女優だった太地さんの実家で同棲。


結婚を前提に付き合っていたそうですが、たった3か月で破局しました。

三國さんが、「疲れた」と書いた置手紙を残して去ったそうです。

のちに太地さんと対談で再会した際、逃げた理由について、「臆病だからのめり込めなかった」と発言。

やや都合のいい回答ですが、前述のコンプレックスから来る不安に悩まされていたのかもしれません。

家を出てから10年後の1972年、とし子さんと離婚。

よりを戻すことも考えていたのかもしれませんが、結果的には破局に至りました。

最後の妻は友子

身勝手で女性遍歴の多かった三國さん。

どんな女性と結ばれても、逃げ出してしまう癖がついている以上、順調な生活を送れるはずがありません。

結局、最終的な妻はとし子さんだったのでしょうか。

しかし三國さんは、先述の通り4度結婚しています。

4人目の妻は、友子さんという女性でした。

糖尿病で入院していた時、献身的に看病してくれた女性だそうです。

三國さんは病気の苦しみを味わいながら、「このまま孤独に死ぬのは嫌だ」と考えたのでしょう。

1976年に結ばれると、かつての「女たらし」と同一人物とは思えないほど、妻を大切にしました。

友子さんと過ごす生活を何より大切し、「友子のために長く生きよう」と語ったほどです。

明るく優しい彼女の人柄に触れ、年齢を重ねたこともあり、ようやく落ち着いた三國さん。

2013年、急性呼吸不全により90歳で亡くなるまで、友子さんと過ごしました。

若い頃、奔放に生きた1人の老人を、最後の妻はあたたかく見守っていたのでしょう。


偉大な俳優であると同時に、女たらしの曲者だった三國さん。

彼の生涯は傍から見ると波乱万丈で面白味があるため、他にも知られざるエピソードを探ってみたくなりますね。

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