『福島行進曲』や『東京だョおっ母さん』で知られた作詞家の野村俊夫(のむら としお)。
2020年のNHK朝ドラ『エール』で、「村野鉄男」として登場しました。
今回は野村の妻、結婚生活を見ていきます。
また朝ドラでも描かれた、同郷福島出身の作曲家・古関裕而、歌手・伊藤久男との関係に迫り、生い立ちをまとめます。
野村俊夫のプロフィール
本名:鈴木喜八
生年月日:1904年11月21日
死没:1966年10月27日
身長:不明
出身地:福島県福島市
最終学歴:福島県立福島商業高等学校中退
野村俊夫、妻との結婚生活
1924年、20歳で福島民友新聞社に入社した野村。
編集部に属し、文芸欄を担当していました。
妻は新聞記者時代に交際を始めた、野村ハツさんです。
新聞社に勤めながらも、雑誌「北方詩人」で詩を発表するほど、創作意欲が旺盛だった野村。
1931年には、詩作で身を立てるため新聞社を退社し上京しています。
ハツさんからすれば、1人取り残されてしまった状況でした。
しかし野村は、彼女のことを忘れたわけではありません。
4年後、彼女を東京へ呼び寄せて結婚します。
そして1939年には、コロムビアの専属になりました。
作詞家として順調にキャリアを積む傍ら、妻との間に一男二女をもうけています。
長男は鈴木克東さん。
父について、「子供たちを大切にしてくれた」と語っています。
よく温泉旅行へ連れて行ってくれる、優しい父だったそうです。
ハツさんは外出するのが嫌いで、家族で出かけることは滅多にありませんでした。
野村は妻が出不精な分、自分が積極的に子供たちと外で遊ぶようにしていたのでしょう。
馴れ初めエピソードは語らず?
ハツさんについて公表されている情報は、あまり多くないようです。
Wikipediaでも、配偶者がいることだけは書かれていますが、「ハツ」という名前すら出てきません。
ネット上にはさまざまな噂があるようですが、情報ソースが明かされていないものも多く、信ぴょう性には欠けます。
そんな噂話の中から、馴れ初めにまつわるものを拾ってみましょう。
噂によれば、ハツさんの父親は経済的な問題を抱えており、家庭が厳しい状況に追い込まれていたのだとか。
そんな状況を知った当時の野村は、前述のとおり新聞記者として働いていた頃。
『古関裕而が生きた時代』展、思ってたより良かった!若き日の野村俊夫記者(エールの村野鉄男のモデルね)が書いた当時の記事が読めたのは貴重だったなあ。
福島女子師範学校の生徒等が吾妻山で遭難した現場に乗り込んだ記事は凄みと悲しみがあった!#朝ドラエール#エール#福島民友 pic.twitter.com/4z7rE1hHDw— /theo825// (@teo825) August 21, 2020
ハツさんを助けようとしたのか、野村は経済的な援助を始めたそうです。
2人の交際はそこからスタートし、結婚に至ったとのこと。
ただ、あまり詳しいことは見えてきません。
援助を始める前にどこかで出会いがあったはずでが、きっかけは不明。
昔からの知り合いだったのか、記者の仕事を通して出会ったのか、よくわかりません。
前述のとおり、どこから判明したエピソードなのかも不明。
詳細が伝えられていないとなると、野村が自ら馴れ初めを語ったこともないのかもしれませんね。
妻や子供のために方針転換?
噂の中には、結婚後の野村が家族のためにがんばったエピソードもあります。
1939年の「ほんとにほんとに御苦労ね」は、戦地の酒盛りなどでもよく歌われるほど高い人気を獲得した楽曲。
ですが、作詞を担当する前の野村は戦争に反対していたのだとか。
新聞社に勤めていたこともあり、リベラルな考え方を持っていたようです。
そのため、軍歌で士気を高めることにも疑問を感じており、書くのは政府が望まないような歌詞ばかり。
内務省の検疫では片っ端から弾かれてしまい、ブラックリストに名を連ねるほど敵視されていたそうです。
最終的には詞の内容まで見てもらえなくなり、名前だけで即却下。
当然、そんな状態では仕事ができなかったはずなので、収入も減っていったことでしょう。
そんな中、結婚した妻と子供たちの生活をなんとか守ろうとした野村は、やむなく方針を転換。
なんとか「ほんとにほんとに御苦労ね」を書き上げ、ようやく多くの人に歌詞を覚えてもらえるようになったそうです。
この話が事実なら、妻との家庭を守りたいという強い意志が感じられますね。
古関裕而や伊藤久男と「三羽ガラス」で人気
野村は作曲家の古関裕而と、歌手の伊藤久男と共に、「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれていました。
別名「福島三羽ガラス」ともいわれる通り、3人は福島県出身です。
#エール 山崎育三郎演じるプリンスのモデルである伊藤久男の若い頃、ほんとにイケメン(左)。
右が裕一のモデル・古関裕而、上は鉄男のモデル・野村俊夫。
(「古関裕而の昭和史」から) pic.twitter.com/zH607Ao9np— nodamachiko (@hhelibe_m) May 25, 2020
野村は古関より5歳年上で、子供の頃から仲良しでした。
ガキ大将の野村の後にくっついていた古関は、大人しい少年だったのでしょう。
彼に上京をすすめたのは、幼い頃から仲良しだった古関裕而です。
古関は当時、コロムビアに所属する作曲家でした。
上京した野村は、早速古関とタッグを組んで、『福島行進曲』を発表しデビュー。
作詞家、作曲家となった2人が戦時中に発表した『暁に祈る』は大ヒット。
同曲を歌ったのは、ダイナミックな歌声で知られた伊藤久男でした。
伊藤は古関より1歳年下で、伊藤が帝国音楽学校に通っていた時期から交流しています。
同郷ということで、すぐに打ち解けたのでしょう。
『エール』では古関が主人公の「古山裕一」、伊藤が歌手の「佐藤久志」として登場しました。
朝ドラで3人は同級生として描かれましたが、実際には違います。
また伊藤は本宮市出身で、あとの2人は福島市出身ですから、伊藤は幼馴染みではなかったのです。
しかし厳しい音楽業界を戦い抜くにあたって、地元が同じというつながりがあるのは、お互い心強かったことでしょう。
野村俊夫の生い立ち
野村は福島市大町の魚屋「魚忠」に生まれています。
父は鈴木忠八、母は鈴木アキという名前でした。
福島第一小学校を卒業後、福島商業学校へ進学。
しかし家業が傾き、自身の病気も重なって中退。
富豪の角田林兵衛のもとで奉公します。
奉公先で働きながら、新聞や雑誌へ詩を投稿し始めました。
結果的に、詩作への熱意が認められ、実家に帰された野村。
詩作に励みつつ、3年家業を手伝ったのち、新聞社に入っています。
ガキ大将だった野村ですが、元々勤勉な性格だったのでしょう。
生活が苦しかったため、一時は夢を諦めました。
しかし古関が後押ししたおかげで上京を決意し、作詞家として開花するのです。
おそらく幼い頃、古関はガキ大将の野村に、いじめっ子から守ってもらったことがあったのでしょう。
成人後、恩返しのつもりで、地元にて才能をくすぶらせていた野村の上京を手伝ったのかもしれませんね。
「三羽ガラス」は、それぞれが同郷のきずなで支え合い、共に花開いたといえるでしょう。
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コメント
祖父、祖母を取り上げてくれてありがとうございます。祖父は自分が幼い頃に亡くなりましたが、とてもまごの私も可愛がってくれました。祖母とは老年期になってから一緒に暮らしていた為、いろんな話を聞きました。また息を引き取る時も一緒にいることができました。あれから随分経ちましたが、それでもこうして祖父や祖母の事を取り上げて下さったのはとても嬉しく思います。祖父、祖母に変わって御礼申し上げます。