有馬稲子、現在の活動なし。老人ホーム説は横浜のシニアマンション&生い立ちが壮絶

宝塚の娘役を経て、映画女優として活躍した有馬稲子(ありま いねこ)さん。

小津安二郎監督の『東京暮色』(1957年)や『彼岸花』(1958年)など、数々の名作に出演しました。

2024年で92歳になりますが、現在はどうしているのか見ていきましょう。

また老人ホームに入居したという情報と、横浜のシニアマンションに暮らしているという情報を確認します。

併せて、知られざる生い立ちに迫りましょう。

有馬稲子のプロフィール

愛称:ネコちゃん、おイネ

本名:中西盛子(なかにし みつこ)

生年月日:1932年4月3日

身長:158cm

出身地:大阪府池田市

最終学歴:大阪府立夕陽丘高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)

有馬稲子の現在は活動せず

まず有馬さんの2024年現在についてです。

かつては、さまざまな映画やドラマで活躍していた有馬さん。

近年は、その姿を見かける機会が減少しています。

芸能活動はしていない

2019年の有馬さんは、ドラマ『やすらぎの刻〜道』、映画『葬式の名人』などに出演していました。

有馬さんは1932年生まれなので、当時は87歳。


高齢でも活動を続けていたのは、すごいことですね。

しかし、90代になった近年は、さすがに活動を控えているようです。

2019年以降、ドラマや映画への出演はありません。

その他のテレビ番組やラジオなどにも、出なくなったようです。

はっきりと引退宣言をしたわけではありませんが、活動がないとなると、実質引退と考えてもいいでしょう。

ちなみに、休業の発表などもなく、活動がない理由を詳しく語ったことはないようです。

そのため想像するしかありませんが、やはり年齢は大きいのではないでしょうか。

昔より元気な90代が増えたとはいえ、体に負担のかかることを控える人は多いはず。

有馬さんも、芸能活動から離れ、静かに暮らす選択をしたのかもしれません。

これから有馬さんの演技を堪能するなら、過去の出演作に触れるのがよさそうですね。

存命の事実に驚きの声?

SNSでは、有馬さんが存命であることを知り、驚く人の声も見かけます。

どうやら、故人と思い込んでいる人がいるようですね。

勘違いされてしまう理由は、活動の減少と年齢が考えられるでしょう。


その姿を見かける機会がなく、しかも高齢となると、すでに亡くなった可能性を想像するのはわかります。

高齢の有名人が亡くなる場合、「活動がなくなって心配していたら訃報が」というケースは実際にあるものです。

有馬さんの仕事の情報を見なくなったことで、同様のパターンを思い浮かべた人もいるのでしょうね。

中には、すでに訃報が出ていたような思い込みをする人もいるのかもしれません。

どっちかわからなくなったら、まずは落ち着いて、本当に訃報が存在するのか調べてみた方がいいでしょう。

有馬さんのように勘違いされている場合もあるわけですから、SNSの噂話などは当てになりません。

過去のニュースを調べて訃報が出てこなければ、それは存命ということです。

老人ホームの噂は横浜のシニアマンションだった

有馬さんが老人ホームに暮らしているという情報があります。

一方で横浜のシニアマンション在住という情報もありますが、どちらが正しいのでしょうか。

実はいずれも正しい情報です。

2007年、これまで暮らしていた田園調布の自宅から、横浜市にあるシニア向け高級マンションへ転居。

マンションはケア付きのため、生活を送る上で誰かのサポートが必要になったのでしょう。

あるいは晩年を、誰かと楽しく過ごしたくなったのかもしれません。

中高年専用のシニア向け分譲マンションということですが、実質は老人ホームのようなもの。


このマンションの居室を、有馬さんは購入したそうです。

つまり噂になっている「老人ホーム」と「横浜市のマンション」は同じ施設でした。

有馬さんはここで、画家の「モネ」と自身の愛称「ネコ」にちなんだガーデニング会「モネコガーデン」を主催。

前日に購入したお花を、メンバーと一緒に植えて楽しむそうです。

中絶や離婚など、つらい体験をした有馬さんですが、今は仲間と幸せに暮らせているようですね。

有馬稲子の生い立ち

大阪で生まれた有馬さんは、4歳の時に、かねさんという女性の養女になりました。

かねさんは父方の伯母で、夫とともに韓国で暮らしていましたが、子供がいなかったそうです。

有馬さんは養女となって以降、幼少期は釜山で暮らました。

実父は共産主義の組合運動に励んでおり、警察に監視されていたそうです。

両親は乳飲み子の有馬さんを抱え、大阪市内を渡り歩いていました。

様子を見かねた祖母が、孫をかねさんに預けた結果、養子縁組したそうです。

養父は家庭用品の問屋を営み、商工会議所で議長も務めていました。

養母は踊りの師匠として活躍しており、有馬さんは裕福な生活を送ったそうです。

しかし9歳の時に養父が亡くなり、戦争が始まると生活が一気に困窮します。

釜山高女に入学するものの、勤労動員で勉強の暇はなく、軍服のボタン付けに励みました。


養母は軍隊の慰問で忙しく、有馬さんは13歳でソウルに住む母方の叔母に預けられ、終戦を迎えます。

かねさんと再会した有馬さんは、小さな鰯船に乗り、命がけで下関へ辿り着きました。

日本へ帰国後は実の両親とも再会し、一緒に暮らし始めます。

しかし実父から虐待を受け、非常につらい思春期を送ったそうです。

1948年、たまたま友人に誘われて受けた宝塚音楽学校へ入学。

入学後、実は養母のかねさんが、宝塚出身だったことを知ったそうです。

かねさんは「有馬稲子」という芸名で活動していたため、有馬さんは襲名して女優活動を開始しました。

有馬さんが女優になったのは偶然の成り行きです。

しかし無意識のうちに、伯母から大きな影響を受け、芸の道に惹かれていたのかもしれませんね。

有馬さんは壮絶な体験をしたことで、芸能界で長年活躍できるバイタリティーを培ったといえるでしょう。

有馬稲子の経歴まとめ

有馬さんは2度の結婚と離婚を経て、長年1人で暮らしてきました。

1961年の結婚相手は萬屋錦之介さん。

しかし主婦の務めではなく女優活動を優先させるため、4年後に離婚。

1969年に、実業家の河村三郎さんと再婚しますが、83年に再び離婚しました。

2010年4月に、日本経済新聞での連載『私の履歴書』で、有名な映画監督との不倫と中絶体験を告白。

錦之介さんとの初婚前に、妻子持ちの監督と不倫関係を続けていたそうです。

妊娠したものの中絶を迫られた末に破局した顛末を、自伝『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』で公表しました。

自伝は映画評論家の樋口尚文さんとの共著で、映画監督の実名は明かしていません。


しかしマスコミの報道では、市川崑監督だったということでした。

自らスキャンダルを明かすほど、市川監督に恨みを抱いていたことがうかがえます。

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