大原麗子と韓国の関係。男勝りな性格と生い立ち。父親との確執、弟について

少しハスキーな甘い声と年齢不詳の可憐な美貌で多くのファンを魅了した大原麗子(おおはられいこ)さん。

国民的女優だった大原麗子さんが「韓国」で検索されるのはなぜでしょう。

また森光子さんや浅丘ルリ子さんの弔辞の言葉もあり、性格に関心を寄せる人が増えているようです。

生い立ちを振り返りながら、弟と父親についてもまとめます。

大原麗子のプロフィール

本名:飯塚麗子

生年月日:1946年11月13日

死没:2009年8月3日

身長:157cm

出身地:東京都文京区

最終学歴:北豊島高等学校

大原麗子と韓国の関係は?

2009年8月、62歳の若さでひっそりと旅立った大原麗子さん。

晩年は闘病や母親の介護で表舞台から遠ざかってしまったことが残念でなりません。


ドラマ『雑居時代』や『春日局』、映画では『居酒屋兆治』『おはん』など代表作はいろいろありますが、やはり真っ先に思い出すのはサントリーレッドのCMです。

身勝手な夫に振り回されて、むくれながも健気に帰りを待つ和服の女性。

「すこし愛して、なが~く愛して」と柔らかく語りかけるCMは、まさに大原麗子さんの魅力が全開でした。

大原麗子さんは「韓国」のワードで検索されることがありますが、なぜ「韓国」で検索されるのかはわかりませんでした。

考えられるのは、大原麗子さんが50代で受けた二重まぶたの整形手術でしょうか。

時期としては『徳川慶喜』出演後のことだそうです。

この手術は失敗し、元に戻すための再手術を受けることになりました。

韓国は「整形大国」の異名をとるほど整形手術が一般人にまで普及しており、アジアの近隣諸国からも患者が訪れるそうですから、韓国で手術を受けたのではと思う人がいるのかもしれません。

また「大原」という名字は在日朝鮮人の通名にたびたび使われるとの説があるようなので、韓国ルーツが疑われたのかもしれません。

詳しく後述しますが、生家は東京・文京区の老舗和菓子店。

調べたかぎりでは、両親にも韓国とつながりはみえません。

不運な晩年と孤独な死が衝撃的だっただけに、その生涯がいっそうミステリアスに見えてしまい、火のないところから立ち上がった憶測の可能性が高そうです。

大原麗子の性格は?

芸能活動を休止してからは、その孤独感を紛らわせるためか、昼夜を分かたず俳優仲間に長電話をかけていたという大原麗子さん。

浅丘ルリ子さんも愚痴ばかりの長電話に苦しめられ、距離をおいていたことを後悔とともに明かしています。

性格は少し躁うつ的な傾向があり、躁状態の時はよくしゃべり、短気なところもあったようです。

かつてマネージャーを務めていた女性は、ある映画監督のヌードの要求を啖呵をきってはねつけたエピソードを披露。

そればかりか、可憐な容貌からは想像できないほど勝気な性格で、10人近い男性マネージャーたちを振り回してきた武勇伝の持ち主でした。

近しい人たちの証言を総合すると、わがままで気が強く、男勝りなところがあり、それでいて孤独にはめっぽう弱い寂しがりやという女性像が浮かんできます。

若い頃から病魔に苦しめられたこともあり、心にも傷を負ったことでしょう。

また、おそらく生い立ちが影響していると思われますが、男性に父性を求めてしまうファザコンでもあったとのこと。

好きな男性のタイプはおとなしい人と答えたことがありますが、うるさい人は疲れるからという理由でした。

渡瀬恒彦さんのことは離婚後も思い続けていたようで、晩年もたびたび電話したり、渡瀬さんの自宅前を通るだけでいいから車を出してほしいと頼むことがあったそうです。

女優としてプライドと、一人の女性としての葛藤に苦しむ心情が伝わってくるエピソードです。

父親との確執、弟と離れて暮らした生い立ち

1946年11月13日 、老舗の和菓子屋・田月堂の長女として誕生した大原麗子さん。

3歳年下の弟・大原政光さんは獨協大学卒業後、銀行マンを経て、姉の個人事務所の社長を務めていた時期がありました。

姉弟の運命が大きく変わったのは姉が8歳の時。

両親の離婚で、姉は母・俊子さんに、弟は父に引き取られることになったのです。

のちに政光さんが語ったところによると、離婚の原因は父親の女癖の悪さ。

父には5回の結婚歴があり、俊子さんは4人目の妻でした。

また、父と大原麗子さんの間にも根深い確執があったようです。

幼い頃から父親のDVを受けていたという大原麗子さん。

写真の撮られ方を終生気にしていたそうですが、これは殴られたことにより鼻骨の右側が少し盛り上がっていたからでした。

森進一さんと離婚後は大原姓に戻らず、家庭裁判所の手続きをふんで母親の飯塚姓に。

それほど父親を憎んでいたということでしょう。

ですから、亡くなった時の本名は「飯塚麗子」です。

自宅の寝室でこと切れている姉を警察官とともに発見したのも政光さんでした。


三回忌を前に出版された前田忠明さんによる『大原麗子 炎のように』の監修も政光さんが担当しています。

華やかな女優活動の舞台裏で、波瀾万丈の人生を送った大原麗子さん。

スクリーンに登場しただけで画がパッと明るくなるような華をもった女優でした。

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