田中角栄の学歴は中卒?記憶力が天才的、一級建築士の第1号?経歴まとめ

歴代内閣総理大臣の中でもカリスマ的人気を誇る田中角栄(たなか かくえい)さん。

貧しい家庭に生まれながら、一国のリーダーにまでのし上がった人生は、非常にドラマチックですね。

今回は角栄さんが総理大臣になるまでの経緯を見ていきましょう。

学歴が中卒という情報、天才的な記憶力を物語るエピソード、一級建築士の第1号だったという噂を確認します。

最後に経歴を見ていき、彼の生涯をまとめます。

田中角栄のプロフィール

本名:田中角栄

生年月日:1918年5月4日

死没:1993年12月16日

身長:不明

出身地:新潟県柏崎市

最終学歴:二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)

田中角栄の学歴は中卒ではなく小卒

まず角栄さんの学歴が中卒という情報を確認します。

田中家は農家で、父は牛馬商、祖父の捨吉は農業と宮大工で生計を立てていました。

しかし角栄が幼い頃に家業が傾き、一家は極貧生活を送ります。


彼は1933年、二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)を卒業し、家計に負担をかけないよう就職。

土木関連の仕事を経て、上京後は井上工業に住み込みで働きます。

仕事の傍ら、中央工学校土木科の夜間部に通い、1936年に卒業後は建築事務所に勤めました。

角栄さんは自身の最終学歴を、「中央工学校卒業」と公表していたようです。

しかし、当時の学校制度では、中央工学校は認可された教育機関としての「学校」ではありませんでした。

中央工学校のような「専門学校」は、1976年に創設された学校制度によって「学校」と認定されたのです。

だとすれば角栄さんの正式な最終学歴は、「二田高等小学校」のはず。

つまり彼は小学校卒だったことになりますね。

ただし角栄さんはかなりの優等生で、卒業式では総代も務めました。

たとえ最終学歴が小学校であっても、一国のリーダーにふさわしい知性を備えていたことは間違いないでしょう。

また一時期は海軍兵学校への入校を目指し、「研数学館」や「正則英語学校」などで勉学に励んでいたそうです。

さらに働きながら実業学校「錦城商業学校」にも通学し、商業を修めました。

彼は家庭の事情で小学校しか出られなかったものの、社会人になってからも意欲的に勉強を続けていたのです。

たゆまぬ努力と向学心によって、角栄さんはリーダーへの道を突き進んでいった大人物といえますね。

田中角栄は天才的な記憶力の持ち主

優等生だった田中角栄さんは、高い教養だけでなく、天才的な記憶力の持ち主でもありました。

予算の細かい数字も、たった1回見ただけで、すべて覚えられたそうです。

大勢の支援者1人ひとりのフルネームも、何年か後に顔を見れば、完璧に思い出せたといいます。

自身は高い記憶力について、「1回見れば頭に入る。彼女の電話番号を忘れないのと同じ」と発言しました。

彼は昔から数学が大好きだったため、数学的思考力も武器にして仕事を合理的にさばいていたそうです。

演説の際は、資料やメモは一切見ないにもかかわらず、正確な数字を次々と述べ立てました。

「1945年のセメント総生産高87万3,000トン」といった細かい数字はお手の物。

たった1度データを見ただけで、すべての情報が頭に入っていた点で、文字通り記憶力の「天才」だったのです。

もし彼が裕福な家に生まれ、高等教育を受けていたとすれば、世界レベルの天才学者になっていた可能性もありますね。

一級建築士の第1号だった?

ネット上には角栄さんが「一級建築士の第1号」だったという噂が流れていました。

角栄さんは中央工学校土木科を卒業後、建築事務所で働いたのち、わずか19歳で独立。

「共栄建築事務所」を設立し、主に理研コンツェルンから、建築の仕事を請け負っていました。

政治家になる前、確かに彼は建築士としてのキャリアを積んでいますね。

ただ調べたところ、角栄さんが「一級建築士の第1号」という情報は誤りだとわかりました。

彼は建築士試験に合格していたものの、審査に時間がかかってしまい、結局「16,989号」に認定されたそうです。

建築士の資格制度を定めた「建築士法」が成立したのは、1950年のことでした。

当時、衆院議員だった角栄さんが、同法を議員立法として提出し、自ら認可を求めたのです。

立法後に「俺を第1号にしろ」と頼んだためか、「角栄が第1号」という噂が流れてしまったようですね。

自身の提出により制定された法律ということもあり、彼は自分が建築士の第1号として認定されたかったのでしょう。

田中角栄の経歴まとめ

角栄さんは上京後に建築士としてキャリアをスタートさせました。

1939年から1940年まで兵役に就き、陸軍の上等兵になりましたが、肺炎によって送還されます。


肺炎は治癒したものの除隊となったため、1941年に「田中建築事務所」を設立。

翌年に事務所の家主の娘だった、坂本はなと結婚しました。

1945年11月、建築事務所の顧問だった進歩党の大麻唯男代議士に依頼され、故郷の新潟県2区で立候補。

落選したものの、1947年の総選挙で、中選挙区制の新潟3区から立候補。

民主党公認の候補者として当選を果たし、28歳にして国政へ進出するのです。

翌年に「炭鉱国家管理疑惑」によって逮捕されたものの、のちに逆転無罪となりました。

1958年には、39歳の若さで国務大臣に就任。

順調にキャリアを積み、1972年には「日本列島改造論」を発表し、地域格差の解消を目指します。

「故郷の新潟県を活性化させたい」という強い思いがあったのでしょう。

そして翌月には自民党総裁となり、新潟県出身者としては初めて、内閣総理大臣に抜擢されました。

在任中は日中国交正常化、第一次オイルショックなどの大きな課題に対処。

しかしわずか2年で金脈問題が明らかとなり、失脚してしまうのです。

以降は有名なロッキード事件で有罪判決を受け、懲役4年、追徴金5億円を言い渡されます。

晩年は病気がちになり、脳梗塞で倒れてからは復帰できず、1993年に75歳で肺炎により亡くなりました。


高等教育を受けていないにもかかわらず、建築士となり、内閣総理大臣にまでのぼりつめた田中角栄さん。

汚職事件に関与さえしなければ、晩年まで健康を保ち、より長く活躍していたかもしれませんね。

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