前田武彦、笑点と夜ヒットの司会。バンザイ事件の真相。家族に囲まれ死去

司会者・放送作家として昭和のテレビやラジオ業界に貢献した前田武彦(まえだ たけひこ)さん。

アニメ『エイトマン』の主題歌の作詞も手がけており、マルチタレントとして活躍しました。

今回は前田さんの「笑点」と「夜ヒット」の司会者としての活動に焦点を当て、後者におけるバンザイ事件の真相を確認します。

また2011年、家族に囲まれて死去した際の様子にも迫りましょう。

前田武彦のプロフィール

愛称:マエタケ

本名:前田武彦

生年月日:1929年4月3日

死没:2011年8月5日

身長:不明

出身地:東京府東京市芝(東京都港区)

最終学歴:立教大学経済学部中退

前田武彦は笑点の司会者

まず前田さんについて、「笑点」の司会者としての活動に迫ります。

前田さんといえば、おなじみのテーマ曲「笑点のテーマ」に歌詞をつけたことでも知られていますね。

彼が司会者を務めていたのは、1969年11月9日放送回から翌年の12月13日放送回まででした。

前司会者・立川談志さんが降板する際、前田さんを推薦したそうです。

しかし前田さんは落語家ではなかったため、大喜利メンバーたちとは相容れなかったといいます。


さらに打ち合わせの際は寝そべりながら話を聞いていたそうで、自分だけが特権階級気取りだったようです。

林家木久扇さんは、「歴代司会者の中で前田さんがもっともやりづらかった」と、付き合いにくい彼の人柄について吐露。

さらにハワイロケの際は、大喜利メンバーがエコノミーなのに対して、司会者のみファーストクラスだったそうです。

前田さんは大喜利メンバーを、内心で見下していたようですね。

さらに彼は番組から演芸色を排除し、自分が司会しやすいようにバラエティ色を強めていきます。

メンバーが色とりどりの着物をまとうようになったのも、彼が司会を務めていた時期からの演出だそうです。

前田さんはおよそ1年間司会者を務めた末に降板。

理由はスケジュールの都合とも、メンバーと折り合いが悪かったためともいわれています。

真相は不明ですが、少なくとも彼とメンバーの仲が悪かったことは事実。

メンバーたちは前田さんの降板に、さながら嫌な上司の転勤が決まったサラリーマンのような気持ちで、心から安堵したのでしょう。

夜ヒットの司会はバンザイ事件で降板

前田さんは、通称「夜ヒット」として知られる、「夜のヒットスタジオ」の人気司会者でした。

1968年開始の同番組では、「マエタケ」という愛称で親しまれましたね。

彼は自称「あだ名の名人」で、一緒に司会を担当した芳村真理さんやゲストたちに、多くのあだ名をつけたことでも知られています。

毎回飛び出すユニークなあだ名や、台本を無視した軽妙なトークが、彼の人気を高めていきました。

しかしやや過激な発言も多く、若手女性歌手を泣かせることもありました。

彼の不用意な発言を、必死に芳村さんが火消ししようとする場面も度々あったようですね。

徐々に前田さんのアンチ層が増えていた1973年、いわゆる「バンザイ事件」が起きます。

当時の前田さんは共産党の宮本顕治書記長から、司会やパネラーなどの仕事を依頼されていました。

共産党からは満足できる程度のギャラをもらえるため、深く考えずに一種の仕事として依頼を引き受けていたのです。

そして共産党は、参議院選の大阪選挙区からの候補者・沓脱タケ子(くつぬぎ たけこ)さんの応援演説を依頼。


前田さんはここで、沓脱さんが当選した場合、翌日に生放送される夜ヒットの中でバンザイをすると約束しました。

そして1973年6月18日、彼女は見事当選。

前田さんは番組中、約束をすっかり忘れていましたが、エンディング中にふと思い出したといいます。

マイクも生きていない状況の中、「とりあえずやっておこう」と考えたそうです。

そしてゲストの「東京ロマンチカ」の三條正人さんに対して、「三條君、お疲れ。バンザーイ」とバンザイを行いました。

三條さんは意味がわからないまま、つられてバンザイしたといいます。

前田さんとしては軽い口約束を果たしてあげただけで、とくに政治的な意図は持っていなかったのでしょう。

しかしフジサンケイグループのオーナーだった、反共右派の鹿内信隆さんが真相を知って激怒。

彼は「ゴールデン洋画劇場」から、映画解説者だった前田さんを降板させます。

さらに1973年9月24日放送回を最後に、5年間司会を担当してきた夜ヒットからも降板させてしまいます。

前田さんはほかにも担当番組すべてを解任させられました。

相手役の芳村さんも、一時降板して連帯責任を取ります。

人気番組だった夜ヒットはゲスト自ら司会を交替で担当するという迷走期間を迎えます。

この体制は74年に芳村さんが復帰するまで続きました。

前田さんはこのとき初めて、軽い気持ちでの発言が命取りになり得ることを痛感したのでしょう。

前田武彦は家族に囲まれて死去

バンザイ事件により、レギュラー番組降板という憂き目にあった前田さん。

しかし1980年代以降、「朝のホットライン」や、映画「釣りバカ日誌」シリーズへ出演し始め、徐々に仕事を増やしていきます。

何とか名誉回復した彼は、2000年代に入ってからもテレビやラジオに出演。

2011年8月5日、82歳で亡くなるまで現役で活動しました。

最後の仕事は同年7月16日放送のTBSラジオ「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」だったといいます。

仕事人間のイメージが強い前田さんですが、生前は意外にも家族を優先させていたそうです。

会社員の長男・塁さんによると、色々な場所へ連れて行ってくれる良き父だったといいます。

司会者としてはブラックジョークの多い毒舌家でしたが、家庭では塁さんや妻・嘉子さんを思いやる優しい人だったようです。

2011年7月28日に入院した際は、翌日が結婚記念日だったといいます。


妻との外食を楽しみにしていたようですが、容体が悪化し、肺炎により帰らぬ人となりました。

かつてはバンザイ事件でタレント生命が危ぶまれたものの、見事に復帰した前田さん。

最期は家族に看取られて、結果的には幸せな生涯だったといえるでしょう。

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