常識にとらわれない「オレ流」が代名詞となっている落合博満(おちあいひろみつ)さん。
長い歴史を持つ日本プロ野球界において史上最高の右打者と言っても過言ではありません。
落合博満のプロフィール
本名:落合 博満 (おちあい ひろみつ)
身長:178cm
血液型:O型
出身地:秋田県男鹿市
生年月日:1953年12月9日
主な学歴:秋田県立秋田工業高校 / 東洋大学(中退)
落合博満の現在
日本プロ野球界において数々の偉業を成し遂げた落合博満さん。
2023年時点で唯一、三冠王を三度獲得。
また、史上初となるセ・パ両リーグで本塁打王と打点王を獲得。
年俸が1億円を超えたのも落合博満さんが初めてでした。
これだけの成績を残しただけあって中学生の頃はエースで4番。
自ら「秋田で一番うまかった」と語るほど突出した存在だったようです。
そのため幾つもの高校からスカウトが。
なかには甲子園の常連校もあった事でしょう。
ところが落合博満さんが選んだのは野球では全くの無名だった秋田工業高校。
「一番練習が楽そう」という理由で選んだそうですが、入学後に待っていたのは厳しい上下関係と先輩からのシゴキでした。
近年では是正されてきましたが、かつての体育会系では当たり前。
ですが、これに嫌気がさした事で野球部を退部。
その後、部員に説得され大会には出場するも練習に参加する事はなかったそうです。
ただ、このような状況でも野球への情熱は失われず。
野球を続けるため、セレクションを受けて東洋大学に進学する事に。
ところが大学でも厳しい上下関係に納得がいかず。
入部から半年も経たないうちに怪我をしてしまった事もあり野球部を退部。
そして大学も中退して帰郷してしまいます。
ただ、落合博満さんほどの選手をこのまま埋もれさせるのは惜しいと思う人は少なくなかったようです。
その後、高校時代の恩師の勧めにより1974年に社会人野球の東芝府中に加入。
するとメキメキと頭角を現し1978年にはアマチュア野球世界選手権の日本代表入り。
そして同年、ロッテオリオンズに3位指名された事でプロ野球選手となりました。
入団当時、すでに25歳とプロ野球選手としては決して若くはありませんでした。
そのため一日でも早くプロ野球選手として大成するため努力の日々。
その日々について落合博満さんは「初めてさぼらないで野球に打ち込んだ」と語っています。
持ち前のセンスに人一倍の努力をすれば、並みの選手が叶う訳がありません。
1、2年目は1軍と2軍を行ったり来たりという状態でしたが3年目となる1981年には1軍に定着。
同年6月からは4番を任されるようになり、オールスターゲームにも出場。
こうして球界を代表する打者として知られるようになった落合博満さん。
その後は数々の打者タイトルにMVP、ベストナイン等の賞を受賞。
移籍した中日ドラゴンズ、読売巨人軍を優勝に導いた事からいつしか「優勝請負人」と呼ばれるように。
また、現役引退後は2004年から2011年にかけて中日ドラゴンズの監督に就任。
すると指揮を執った8年間でリーグ制覇が4度、日本一が1度という素晴らしい好成績。
スポーツ界には古くから「名選手、名監督にあらず」という言葉がありますが監督としても抜群の手腕を発揮しました。
そして2013年からは中日ドラゴンズのGMに就任。
年俸の削減などコストカットに成功するもチームとしての成績は振るわず。
2016年には19年ぶりとなる最下位に終わってしまいます。
そして契約期限満了となった2017年1月にGMを退任。
それ以降はフリーの野球解説者として活動する傍ら、書籍を出版するなど精力的に活躍しています。
また、近年では声優として活躍する息子、落合福嗣さんとの仲睦まじい様子がたびたび話題に。
長きに渡って選手、監督、GMと勝負の世界で生きてきた落合博満さん。
今はそんなプレッシャーから解放され、悠悠自適な日々を過ごしているのかもしれませんね。
落合博満の偉業と妻
落合博満さんの妻と言えば言わずと知れた落合信子さん。
個性的なキャラクターでタレントとしても活躍。
夫に負けず劣らずの人気と知名度を誇りました。
入団2年目の1980年に落合信子さんが経営するスナックで出会ったという二人。
当時はまだ1軍に定着出来ていなかった頃。
そんな落合博満さんに落合信子さんが勧めたのが歯科矯正でした。
しかもただ勧めるだけでなく、歯科矯正の費用まで提供したそうです。
すると打撃成績は目を見張るほど向上。
1981年に首位打者のタイトルを獲得すると、1982年には三冠王に輝いています。
これだけの結果を残せたのは落合博満さんの才能と努力の賜物。
ですが、歯科矯正も少なからず影響した事は間違いないでしょう。
そして一流打者となるきっかけを与えてくれた落合信子さんと1984年12月に結婚。
すると1985年、1986年と2年続けて三冠王に輝いています。
この活躍を内助の功として支えた落合信子さん。
打球の飛距離を伸ばすため体重を増やさせ、打席に立つ姿に画面に定規をあてフォームを細かくチェック。
そして気付いた事は逐一、報告していたそうです。
また、落合博満さんは結婚後、夜遊びをしなくなるなど生活ぶりも改善。
こうした生活習慣の変化も好成績に繋がったのでしょう。
その後、FA権の行使や監督就任など転機を迎える度に背中を押し続けた落合信子さん。
また、選手とその家族、スタッフには気配りを欠かさないなど緩衝材的な役割も果たしていました。
他の人にアレコレと口出しされる事を嫌う落合博満さん。
それにも関わらず落合信子さんに何一つ文句を言わないのは自分の事を第一に考えてくれている事が分かっているから。
夫の為にこれだけ尽くせる妻がどれだけいる事か。
きっと今でも落合博満さんは「本当に良い人と結婚した」と思っている事でしょう。
落合博満が脳梗塞で緊急搬送?
2012年に休養先で倒れ救急車で搬送されたと週刊誌に報じられた落合博満さん。
眩暈と痙攣、顔面麻痺という症状からまず疑われたのが脳卒中。
その後、搬送された病院で検査した結果、脳梗塞の可能性が浮上。
そのため脳外科ではなく神経内科で治療を受けたそうです。
最悪の場合は命の危険もある脳梗塞。
一命を取り留めたとしても麻痺や言語障害、意識障害などの後遺症が残る事も。
きっと報道を見て体調を心配した人は多かった事でしょう。
ところが後に催された講演会で落合博満さんはこの報道を否定しています。
落合博満さんによると、朝起きた時に顔の異変に気付き診察を受ける事に。
ただ、お盆の時期でどこの病院が開いているか分からなかったため救急車を呼んだそうです。
そして検査の結果、告げられた病名は「顔面神経麻痺」。
脳梗塞はキッパリと否定しました。
顔面神経麻痺になる原因の多くがウイルス。
ストレス等で抵抗力が落ちた時に発症しやすいそうです。
引退後も多忙だった事からストレスも溜まっていたのかもしれません。
また、2012年は酷暑だった事から体力も落ちていたのでしょうね。
なお、落合博満さんの麻痺はその後、治っています。
後遺症が残った様子は見られません。
監督復帰の可能性
2004年から2011年まで中日ドラゴンズの監督を務めた落合博満さん。
2023年時点で中日ドラゴンズで7年連続、監督を務めた唯一の人物。
今や落合博満さんが監督を務めた時期は「球団唯一の黄金時代」と言われるほど。
球史に残る名将である事は間違いないでしょう。
その一方、勝負に徹するあまり野球に面白みが無いと言われた事も。
それを代表するエピソードが2007年の日本シリーズ第5戦の出来事。
この日、先発の山井大介さんは8回まで1人の走者も出さず
8回までに投じた球数も86球と完全試合を目指せる完璧なピッチングでした。
日本シリーズで完全試合を達成すれば史上初の快挙。
ところが9回に守護神、岩瀬仁紀さんに交代した事で完全試合の達成はならず。
試合に勝った事で中日ドラゴンズは実に53年ぶりとなる日本一に。
ですが、試合後に話題となったのは日本一の快挙よりも完全試合目前での継投。
ただ、8回での降板を決めたのは落合博満さんではなく先発の山井大介さん。
試合途中にマメを潰していたこと、試合が1点差だった事から降板を申し出たそうです。
それでも世間の落合博満さんに対する印象は「記録より勝負」。
球団の親会社である中日新聞から「面白みのない落合野球」と批判された事もありました。
ですが、落合博満さんが退任後、2023年時点で日本一はおろかリーグ制覇も1度もなし。
それどころか2013年から2020年まで7年連続でBクラスに終わっています。
このようなチームの状況もあり日に日に高まっているのが「第二次落合政権」。
もし、落合博満さんが監督になれば長期政権となる事は確実。
2023年で70歳という年齢を考えると残された時間は決して長くはありません。
落合博満さんが監督に復帰すればプロ野球界全体が盛り上がる事間違いなし。
元気なうちに再び指揮を執る姿を見せて欲しいものです。
引退を決めた理由は守備だった
日本ハムファイターズに在籍していた1998年に引退を決意した落合博満さん。
意外にも引退を決めたきっかけは打撃ではなく守備だったそうです。
ある試合でファイルフライを追いかけるもボールは5メートルも後ろに落下。
この時に「ダメだ」と引退を考えるようになったんだとか。
打者として数々の偉業を成し遂げた落合博満さん。
まさか守備が引退のきっかけだったなんて驚きですよね。
当時、所属していたパ・リーグではDH制が採用されています。
そのため望めば守備をしないDHでの出場も出来たはず。
代打の切り札になるという選択肢もあった事でしょう。
ですが、落合博満さんはスッパリと引退。
きっと「走攻守、全てやるのがプロ」というプライドがあったのかもしれません。
何一つ手を抜くことなく野球に取り組んだ落合博満さん。
そんな真摯な思いを持ち続けたからこそ球界を代表する名選手となれたのでしょう。
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コメント
最後の2年間はバッティングも低調だった。
フィジカル、技術どちらも当時とは比較できないくらい進歩してる今のNPB、まだまだ戦後を引きずってた落合さんの時代、比較できないと思いますよ。
川崎球場なんて酷かった。三原監督がホームラン量産のために作った球場、多分今の国際基準を満たす球場だったら、ホームラン数2割、3割は減ると思います。