川崎敬三の息子と孫。晩年と死因、アフタヌーンショー打ち切り後はホテル支配人

軽妙な演技の俳優として活躍し、ワイドショーの司会としても人気だった川崎敬三(かわさき けいぞう)さん。

人気ワイドショー「アフタヌーンショー」では、リポーターの山本耕一さんによる「そうなんですよ川崎さん」のフレーズが人気でした。

2015年に82歳で亡くなりましたが、息子や孫は今どうしているのでしょうか。

また川崎さんの晩年や死因、ホテル支配人だったという情報など、「アフタヌーンショー」打ち切り後の様子を確認します。

川崎敬三のプロフィール

本名:陶山惠司

生年月日:1933年7月1日

死没:2015年7月21日

身長:不明

出身地:神奈川県川崎市

最終学歴:不明

川崎敬三の息子と孫の情報は不明

川崎さんの息子と孫について確認しましょう。

調べたところ家族の情報は非公表のため、息子と孫の詳細は不明でした。

わかっているのは妻の名前が節子さんだったということだけです。


晩年は芸能界から遠ざかっていたため、家族の情報が漏れないよう気を付けていたのでしょう。

ただかつて川崎さんとその孫の写真が雑誌の表紙を飾っていたようですね。

芸能活動をしていた時期は、家族の情報を周囲に話すこともあったのでしょう。

しかし1985年、司会を務めていた「アフタヌーンショー」内で、やらせリンチ事件が起き番組は打ち切りに。

その後は「新・アフタヌーンショー」の司会を務めましたが、徐々に芸能界から遠ざかりました。

第一線を退いてからは、家族がゴシップのネタにされないよう、個人情報を守り通したのでしょう。

晩年は悠々自適ながら寂しかった様子。死因は非公表

2001年以降はタレント業を引退していた川崎さん。

ただ不遇の晩年を送ったわけではなく、所有していたマンションの家賃収入で暮らし、セレブ生活を満喫していたようです。

悠々自適に過ごす様子が週刊誌で報じられ、その生活が明らかとなりました。

ただ週刊誌ではわからないものの、川崎さんは複雑な心境だったのではないでしょうか。

本当は芸能活動を続けたかったものの、看板番組が打ち切りに。

彼自身にやらせ問題のイメージが定着してしまったため、再び人気司会者になるのは難しかったのでしょう。

また俳優としてはキャリアにブランクがありうまくいかず、松竹の『恋はいつもアマンドピンク』(1988年)が最後の映画出演になりました。

家族とも友人とも交流せず、1人きりで過ごした晩年。

きっと寂しい想いを抱えていたことでしょう。

2015年7月21日、82年の生涯を終えた川崎さん。

死因は非公表で、死去したという情報も本人の遺志で公表されませんでした。

遺族から喪中はがきが関係者宛に届いた結果、世間が彼の死を知ったのは秋になってから。

喪主を務めた妻の節子さんは、「川崎生まれの川崎育ち。川崎で逝きたかったのでしょう」とコメントしました。

川崎さんは周囲の人と距離を置きながら、ひっそりと世を去ったのでした。

川崎敬三は宮城県のホテルで雇われ支配人となり罷免

寂しい晩年を過ごした理由は、おそらく世間に失望していたためではないでしょうか。

「アフタヌーンショー」の打ち切りを機に、芸能界から遠ざかった後、知人の紹介によりホテルの支配人を務めていました。

勤めていたのは、宮城県古川市内の「ホテル古川ゴールデンパレス」だったそうです。

ただ川崎さんは後年のインタビューで「あのホテルの良い思い出はない」と語っていました。

最初は給仕をしていたものの、徐々にアゴで使われるようになり、最終的には「無能」として罷免されたのです。


雇われ支配人として世間の理不尽に失望した川崎さんは、世捨て人として生きることになりました。

全盛期に稼いだお金でマンションを建て、家賃収入で気ままな生活を送ったのです。

アフタヌーンショー打ち切り後の生活まとめ

「アフタヌーンショー」の打ち切り後、世間とのつながりを断ち切った川崎さん。

ホテル支配人として世間に失望したことが、世捨て人となったきっかけのようでした。

ただ「アフタヌーンショー」の打ち切りも、川崎さんにとって「世間に裏切られた」と感じた事件だったのでしょう。

番組ディレクターが未成年に向かって暴行を指示し、やらせリンチが発覚。

ディレクターは逮捕され、番組は終了しました。


川崎さんはこの時点で世間に失望しており、その後はどんな仕事もうまくこなせなくなってしまったのでしょう。

家賃収入で気ままに生活を送ったことだけが、唯一の救いだったのかもしれません。

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