津田恒実の死因は脳腫瘍。息子が記念館建設に尽力。原辰徳との対決&スタジアム誕生

津田 恒実(つだ つねみ)さんは炎のストッパーの愛称でファンから愛されました。

若くしてこの世を去りましたが、姿を変えて故郷の球児を見守っているそうです。

今回は津田さんの死因や息子の活動、スタジアム命名について見ていきましょう。

津田恒実のプロフィール

本名:津田 恒実 (つだ つねみ)

身長:181cm

出身地:山口県都濃郡南陽町 (現・周南市)

生年月日:1960年8月1日

没年月日:1993年7月20日

投球・打席:右投右打

ポジション:投手

所属球団(選手歴):広島東洋カープ (1982~91)

津田恒実の死因は悪性の脳腫瘍だった

まずは津田恒美さんの命を奪った病気について見ていきます。

体に異変を感じたのは1990年のシーズンオフ頃からで、原因不明の頭痛が続いたことから翌年4月に広島大学病院で精密検査を受けて「悪性の脳腫瘍」であることが判明しました。


津田さん本人や関係者には事実が伝えられたものの、広島球団は病名の公開はファンへの衝撃が強すぎると判断して「水頭症による引退」ということにしたそうです。

自宅や山口県にある実家での療養を経て福岡市にある済生会福岡総合病院に入院。

医師も驚くほどの奇跡的な回復を見せて退院し、トレーニングに取り組むなど現役復帰がおぼろげに見え始めましたが、症状が悪化したこともあって1992年8月20日に再入院をしました。

津田さんは病床という孤独なマウンドで脳腫瘍という敵と激闘を繰り広げましたが病魔に勝つことは叶わず、1993年7月20日14時45分に32歳というあまりに短い人生を閉じたのです。

奇しくも亡くなった日はオールスターゲームの初日だったことから、悲報に接した両リーグの選手やスタンドのファンは遠い彼方へ行ってしまった津田さんに想いを馳せました。

再びマウンドに立つという願いが叶わなかったのは非常に残念ですが、天国で病気から解放された津田さんが野球を楽しんでいることを願うばかりです。

息子が記念館を設立

次は津田恒実さんの息子が記念館設立に取り組んだ件を見ていきましょう。

息子の名前は大毅(だいき)さんといい、子供の頃は父と同じく野球をしていたそうです。

偉大な父と比べられることを嫌って息子ということを隠した時期もありましたが、27歳になった頃に息子である自分しかできないことをしようと一念発起して記念館設立を計画。

広島カープに相談して記念館を広島市内に開設することを決断し、費用を集める手段として選んだクラウドファンディングのPRとして自転車での日本一周にチャレンジしたそうです。

大毅さんは全国各地の”津田恒美ファン”と接して父の偉大さを改めて実感し、肝心のクラウドファンディングも目標金額400万円に対して2,627万5000円が集まりました。

2019年5月末、マツダスタジアム(広島市南区)の近くに「津田恒美記念館」を開業して館長に就任しましたが、コロナウイルスの影響もあって2020年4月に休館をしています。

2021年3月の復活を経て「スポーツファンベース・津田恒美記念館」になったものの、7月4日付で記念館の閉店と関連店舗「ベースボールファンベース」の継続を報告していました。

親子そろって病気に悩まされたというのは奇妙な一致と言えるかもしれませんね。

しかしながら、大毅さんの決意が無ければ津田恒美記念館が生まれなかったのも事実です。

津田恒実と原辰徳の理屈を超えた激闘

ここでは津田恒実さんと原辰徳さんの対決について触れておきます。

津田さんと原さんはともに日本プロ野球界屈指の名プレーヤーとして異論はなく、ふたりの直接対決は球史を彩った名勝負として多くの人の心に刻まれていました。

ふたりの対決は常に注目を集めましたが、中でも1986年9月24日に後楽園球場で開催された試合での勝負は原さんの野球人生を大きく変えたことで有名です。

原さんは津田さんのストレートをフルスイングし続けたことで痛めていた左手を骨折しました。

これ以降は完璧なスイングが出来なくなったことから「あの骨折で原辰徳は死にました」と原さんは語っていますが、対戦自体については後悔どころか満足した表情を見せています。

左手の具合が悪かったので真っ向勝負をしないという選択肢もありましたが、全力で挑んでくる津田さんを見て本能的にフルスイングをした原さんは生粋の野球人と言えるでしょう。

しかし、最近では両者のような闘争心むき出しの勝負が減っているのは寂しい限りですね。

津田恒実の故郷に名前が付いたスタジアムが誕生

最後に津田恒実さんの名前が付いたスタジアムが誕生した話を見ておきましょう。

炎のストッパーがこの世を去って約20年が経った2012年1月12日、野球殿堂博物館は津田さんと北別府学さんが野球殿堂入り(競技者表彰・プレーヤー表彰)したことを発表しています。

出身地の周南市はこの発表を受けて津田さんの功績を讃えることを決め、公募によって同市が所有する周南市野球場に「津田恒実メモリアルスタジアム」という愛称が付きました。

翌2013年3月10日には殿堂入り記念として広島カープ対横浜DeNAのオープン戦が開催され、命名セレモニーも多くのファンと両チームの選手が参列して執り行われています。

ファンや山口県民の間では「津田スタ」として2023年現在も親しまれています。


高校野球の地区予選や社会人野球、体育大会やスポーツイベントの会場として利用されているそうです。

津田さんの肉体はこの世から無くなってしまいましたが、自身の名前が付いた球場から地元の人たちを温かく見守り、遺した熱い意志は球児たちに受け継がれて行くことでしょう。

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