江川 卓(えがわ すぐる)さんは日本球界屈指の怪物として語り継がれています。
高校時代には大変な伝説を残しており、プロ野球でも好勝負を残していました。
今回は江川さんの伝説や怪物対決、キン肉マンに関する噂を見ていきましょう。
江川卓のプロフィール
巨人の名選手!
☆江川卓
投手五冠王に輝くなど、華やかしい成績を残してます。空白の一日事件が有名です。基本的にストレートとカーブで抑える速球派投手です。通算9年で135勝を挙げている。#江川卓#巨人#ジャイアンツ pic.twitter.com/cIi99G1USZ— TK@G党 (@ggg_ouen) December 21, 2014
本名:江川 卓 (えがわ すぐる)
身長:183cm
出身地:福島県いわき市
生年月日:1955年5月25日
所属球団:阪神タイガース (1979) / 読売ジャイアンツ (1979~87)
江川卓が高校時代に残した伝説が凄い!
まず最初に江川卓さんが高校の時に残した伝説を見ていきましょう。
法政大学や読売ジャイアンツで素晴らしい成績を残している江川さんですが、その中でも伝説級として扱われているのは「作新学院高校」時代に残した輝かしい記録です。
江川さんが高校時代に残した公式戦の成績は「投球回数354で被安打103(被本塁打0)」と大変なもので、自責点も16と少なく防御率は「0.41」と桁違いの数字を残していました。
また、ノーヒットノーラン9回と完全試合2回を達成しており、加えて20完封や36イニング連続で無安打無失点を記録するなど傑出した投手だったことが記録からも読み取れます。
1973年春に出場した「第45回選抜高等学校野球大会」はファンや関係者の間で「江川の大会」と言われ、初戦であたった優勝候補の北陽高(大阪府)を4安打19奪三振完封で撃破。
準決勝で広島商業に2対1で敗れてしまったものの、実際に対戦した達川光男さんは当時の江川さんについて「球種が分かっていても打てない」と脱帽をしています。
広島商業は「江川ではなく作新学院に勝つ」という戦法に切り替え、ホームベースギリギリに構えてミスを誘い、結果的にキャッチャーの悪送球で決勝点をもぎ取ったほどでした。
つまり、甲子園に出場できる高校球児のレベルでも江川さんと対戦して勝てる見込みがなく、守備陣を揺さぶることによって何とか勝機を見い出せたということでしょう。
昭和から平成にかけて数多くの超高校級ピッチャーが生まれましたが、普通に対戦をして”バットに当たらない”と言われるほどの選手は未だに出ていません。
もっとも、プロに入ってからも多くの選手から”バットに当てるのが大変”と言われているので、高校生に江川さんのボールを打てというのは酷と言えるでしょう。
怪物仲間の落合博満も江川卓にはお手上げ
次は球界の怪物・江川卓さんと落合博満さんの対決を見ていきます。
ふたりとも球界を代表するレジェンドであることは改めて言うまでもありませんが、投打の怪物同士の対戦はファンのみならず選手や関係者も熱い視線を送っていました。
プロ野球に入ったのは同じ1979年だったものの、パ・リーグの「ロッテオリオンズ」とセ・リーグの「読売ジャイアンツ」だったことから直接対決は多くありません。
当時は交流戦が無かったことから対戦の舞台は野球の祭典「オールスター」でした。
1984年のオールスターでは江川さんが8者連続三振を奪うという怪物ぶりを披露し、8人の中に含まれていた落合さんも思わず笑みを浮かべるなど対戦を楽しんでいます。
のちに落合さんは「なぜ(江川さんが)打たれるのかわからない」と語っていますが、対戦回数が少なければ三冠王を3度獲得したレジェンドでも打てないということでしょう。
ふたりが同じセ・リーグになったのは落合さんが中日ドラゴンズへ移籍した1987年だけですが、すでに全盛期を超えていた江川さんとの手に汗握る激闘はありませんでした。
仮に全盛期の時に同一リーグだったら・・と思いを馳せてしまいますが、たまにしか見られない怪物同士の闘いというのも違う味わいがあると言えますね。
※対戦の通算成績「13打数4安打(打率.308):1打点:0本塁打」
江川卓はキン肉マンのモデルだった
ここでは江川卓さんがキン肉マンのモデルだった件を見ていきましょう。
キン肉マンと言えば1979年に連載が始まり、休載や再開を経て2023年現在も続いています。
キン肉マンの主人公は「キン肉スグル」という名前ですが、この”スグル”は江川さんの名前(卓)が由来だったことを作者のゆでたまごさんが明かしていました。
名前の由来については江川さん自身も2014年7月に出演した「さんまのまんま」(関西テレビ)で触れており、キン肉スグルの兄アタルは弟の中(あたる)さんから命名されたそうです。
また、父親のキン肉真弓は阪神タイガースの真弓明信さん、祖父のキン肉タツノリは言うまでもなく読売ジャイアンツの若大将・原辰徳さんが由来でした。
ちなみに、江川さんが卓と名付けられた由来は父親が麻雀好きだったからだそうです。
江川卓の引退理由は針治療?それとも小早川?
最後に江川卓さんの引退理由について見ておきます。
江川さんは引退理由について会見の中で触れており、大学2年の頃から痛めていた右肩に対して行った中国針による「禁断のツボ治療」が大きいと発言していました。
この”禁断のツボ”とは痛みに対して即効性がある代わりに投手生命が縮まるツボと説明していましたが、鍼灸医の団体から「誤解を与える」と抗議を受けて謝罪をしています。
のちに江川さんも作り話だったことを認めましたが、なぜ嘘の作り話をしたかについては”記者会見でテンションが高まった”とだけ説明して詳しくは触れていません。
本当の引退理由は1987年9月20日の対広島カープ戦で小早川毅彦さんに2打席連続で本塁打を打たれたことで、江川さんも「これを打たれたら投げるボールがない」と言っています。
自分が投げられる最高の球を完璧に打たれたことで自らの限界を悟り、何ら悔いを残すことなく現役生活にピリオドを打っているので納得の引退と言えるでしょう。
ちなみに、1987年5月には奥さんに対して引退を示唆していたそうなので、小早川さんの本塁打は引退への最後のひと押しだったと言った方が適切かもしれませんね。
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