西川きよしの若い頃、相方とのエピソード。出身は高知。弟子との関係と悲劇

漫才界の大御所である西川きよし(にしかわきよし)さんは、若い頃どのような人だったのでしょうか。

また相方の横山やすし(よこやまやすし)さんとの、思い出深いエピソードもあるようです。

また意外なのですが、関西出身ではなく四国の高知生まれなのだそう。

今回は西川きよしさんの若い頃や相方とのエピソード、また出身地・高知についてチェックしていきましょう。

そして弟子についても触れていきます。

西川きよしのプロフィール

愛称:キー坊

本名:西川潔(にしかわきよし)

生年月日:1946年(昭和21年)7月2日

身長:166cm

出身地:高知県

最終学歴:大阪市立三稜中学校卒業

所属事務所:吉本興業

西川きよしは若い頃売れない時期があった

漫才界の重鎮・西川きよしさんは、高知県の出身だそうです。

コテコテの大阪弁なので、意外ですね。

小学生だったときに父親の事業がうまく行かなくなり、逃げるように大阪に引っ越したのだとか。

小さい頃に大変な思いをしていたのですね。

西川きよしさんは高校にも行きたかったようですが、父親が病気になったので諦めたそうです。


中学を卒業して一旦自動車修理工場に就職したものの、上半身を大火傷。

半年も入院するほどの重傷を負いました。

結局、修理工場の仕事を辞めてしまった西川きよしさん。

元々周囲を笑わせるのが得意だったこともあり、喜劇俳優の石井均(いしいひとし)さんに弟子入りしたといいます。

西川きよしさんが17歳の時のことでした。

19歳の頃に人手不足だった「吉本新喜劇」に研究生として入団。

「なんば花月」で舞台に端役で出演していた時に、後に妻となるヘレン杉本(すぎもと)さんに出会いました。

その頃ヘレンさんは新喜劇の看板女優で、西川きよしさんは売れる前。

2人の交際が公になると、格差がありすぎたために周囲から反対されたそうです。

周りの人も、まさか当時の西川きよしさんが後にビッグスターになるとは想像できなかったでしょう。

事務所からも「結婚するならどちらか辞めろ」と迫られ、ヘレンさんが引退を決意。

西川きよしさんはヘレンさんから「支えるからもらって」と逆プロポーズをされました。

それからしばらく経って、1967年にようやく2人は結婚できたのです。

西川きよしの相方とのエピソード

西川きよしさんが相方の横山やすしさんに出会ったきっかけは、紹介でした。

火曜浪曲師の中山礼子(なかやまれいこ)さんが2人を会わせたのです。

その時すでに横山やすしさんは、漫才師として地位を確立していました。

しかし、運命の相方にまだ出会っていなかったのです。

横山やすしさんは、西川きよしさんに会って「コンビを組みたい」と強く感じたとのこと。

そこから何度も口説いて、ついに1966年に「やすしきよし」としてデビュー。

結成当初は、あまり仲が良くなかったそうです。

というのも、横山やすしさんは漫才の天才。

台本を2回読んだら、流れを掴み取ることができたといいます。

一方西川きよしさんは、完璧に準備をして本番に臨みたいタイプ。

台本を、一緒に10回は読みたいと思っていたのです。

西川きよしさんは、横山やすしさんのことを「稽古嫌い」だとして掴み合いのケンカにまで発展。

そして「解散や!」と吉本興業に言いに行ったことまであったそうです。

もちろん、そんなに簡単に解散などできるはずはありません。

売れっ子だったヘレンさんを引退させて稼ぐ覚悟をした、西川きよしさん。

何度も相方とこじれて解散して、これ以上別の相方探しは難しそうな横山やすしさん。

西川きよしさんは「今後も小さなことからコツコツとやらさせてもらいます」と言ったそうです。


この言葉は後に西川きよしさんの決め台詞になりました。

2人は試行錯誤の結果、ボケとツッコミを交互に激しく入れ替える新しい漫才のスタイルを確立。

「やすしきよし」は昭和を代表する漫才コンビになりました。

西川きよしさんは、やんちゃで大変な横山やすしさんを手懐けることに成功。

やすしさんが心を開いてくれた日は、「満足のいく最高の漫才」ができたそうです。

ケンカをすると先に手を出すのは西川きよしさん。

横山やすしさんが遅刻した時も、激怒してぼこぼこにしたこともあったそうです。

コンビの裏側は、なかなか表に見えにくいものです。

いつもキレて怒っていそうな横山やすしさんも、西川きよしさんにはタジタジだったのですね。

頂点まで上り詰めたのに、横山やすしさんの数々の不祥事などにより1989年にコンビを解散。

そして1996年に、横山やすしさんは肝硬変で死去。

まだ51歳という若さでした。

西川きよしは高知出身

高知で生まれた西川きよしさん。

父親は材木商で、生後しばらくは裕福な生活をしていました。

幼い頃の記憶で、高知市の洋食屋で父親と初めて食べた「オムライス」。

ケチャップもグリーンピースさえも見たことがなかったそうです。

その味は忘れられないものとなりました。

食後に飲んだ「ミルクセーキ」も初めての味で、衝撃的だったといいます。

初めてストローを使ってドリンクを飲んだという西川きよしさん。

しかし父親の事業が傾いてしまい、7歳の頃には苦しい生活になったということです。

それから大阪に転居したので、西川きよしさんの記憶に残る子供時代は大阪の方が多いかもしれません。

テレビ番組「ケンミンShow」に出た時も、大阪出身として出演したので高知出身の視聴者は残念がったようです。

西川きよしの弟子

西川きよしさんの弟子は何人かいますが、ここでは西川のりお(にしかわのりお)さんと西川まさと(にしかわまさと)さんを紹介します。

西川きよしの弟子の西川のりお


西川のりおさんは、高校生の頃「やすしきよし」の漫才を見に花月劇場に足を運んでいました。

そして客席から野次っていたところ、西川きよしさんに「楽屋に来い」と言われたのがきっかけで弟子に。

西川きよしさんは、弟子に対して非常に厳しく教えました。

西川のりおさんは辛くて耐えきれなくなって、実家に逃げ帰ったこともあったとか。

しかし師匠のおかげもあって、1980年代を代表するバラエティ番組「オレたちひょうきん族」のレギュラーになったのです。

「ツッタカ坊や」や「つくつくほーし」などのギャグでお茶の間の人気者になりました。

アニメ「じゃりン子チエ」では、竹本テツ役として声優もしています。

西川きよしの弟子だった西川まさと

西川まさとさんは、「西川まさと・吉田かおり」という男女漫才コンビを2006年から6年間組んでいました。

しかし、吉田かおり(よしだかおり)さんは心不全のために急死。

突然の不幸に、西川まさとさんは相当なショックを受けたようです。

酒を飲むと温厚な性格から豹変し、暴れることが多かった西川まさとさん。

「師匠は助けてくれない」と愚痴をこぼしていたことも。

弟子に敢えて厳しくしていた西川きよしさんは、自力で立ち直って欲しかったのでしょう。


しかし西川まさとさんは暴行事件を起こして、反社会勢力とも関わってしまいました。

最後は芸人仲間に「もうおしまいや。これまでいろいろとありがとう」とメールを送って、自ら死を選んだのです。

西川きよしさんとしては、非常に無念だったことでしょう。

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