1983年にデビューして、あっという間に若者の教祖になった尾崎豊さん。
どんな性格だったのでしょうか。
また天才とも言われていますが、どれくらい凄かったのか気になりますね。
今回は尾崎豊さんの性格や人柄、また並外れた才能などについて見ていきましょう。
尾崎豊のプロフィール
愛称:オザキ
本名:尾崎豊(おざきゆたか)
生年月日:1965年(昭和40年)11月29日
死亡年月日:1992年(平成4年)4月25日
身長:178cm
出身地:東京都練馬区
最終学歴:青山学院高等部中退
所属事務所:アイソトープ
尾崎豊は正義感が強い性格だった
「10代の教祖」と呼ばれた、シンガーソングライターの尾崎豊さん。
16歳の時にオーディションを受けており、その時の貴重な映像が残っています。
尾崎豊さんの歌には、社会への反抗のような思いが込められているものが多いようですね。
尾崎豊さんが高校生だった1980年代と、2023年現在では環境がかなり異なります。
1980年代の学校は、非常に荒れていました。
生徒は反抗し、校内暴力が起こって窓ガラスが割れたりしたことも。
校舎内にバイクに跨った暴走族が乱入する、ということもありました。
その背景には、当時の校則や教師の指導が2022年よりもはるかに厳しいものだったことにあるのではないでしょうか。
先生が生徒を叩いても、問題になることはありませんでした。
もし同様なことを令和時代に行うと、直ちにニュースになって先生は処分されるでしょう。
そのような締め付けに対する抵抗感を、思春期のエネルギーみなぎる子供たちは爆発させていたのですね。
そのような時代に生きた尾崎豊さんも、「支配されたくない」「こんな社会で良いのか」という思いを抱いていたようです。
ある時、街で女性が見知らぬ男性に絡まれているのをたまたま目撃したそうです。
すると尾崎豊さんは、放っておけず止めに入ることがありました。
最初は優しい口調で注意したそうですが、その男性が反発したのです。
すると尾崎豊さんは拳を上げて、力でねじ伏せてしまったこともあったとか。
また高校の友達が校則違反をしたことで、丸坊主にされてしまったことがありました。
教師の行き過ぎた罰に怒りを覚えた尾崎豊さんは、家出をして反発の意を表明。
友達思いの一面も持っていたことがわかりますね。
そして、意思の強さも感じさせます。
また、クラスでいじめられている子がいた時のこと。
尾崎豊さんはいじめっ子に対して、なだめて止めていたそうです。
しかし、それでもやめない者もいたとか。
その時は、そのいじめっ子に飛びかかっていったといいます。
このように、尾崎豊さんはとても正義感が強い人だったのですね。
天才の悩みとその凄さ
尾崎豊さんは10代でデビューして、あっという間に若者の教祖的地位に立ちました。
それは歌詞に込められた強い思いを、素晴らしいメロディと歌唱力に乗せて人々に伝わったからでしょう。
とても感受性が豊かな人だったからこそ、このようなメッセージ性の強い楽曲が出来上がったのですね。
「尾崎豊は天才だった」とよく言われるのも、当然のことでしょう。
尾崎豊さん自身は、人気絶頂の20歳の頃から迷いが見えてきたようです。
「自分が思っているのと違う方向に行ってしまっている」と悩んでいたといいます。
表面のメッセージだけが広がっていって、勘違いされたと感じていました。
そこで、尾崎豊さんは20歳で一旦活動を停止したそうです。
「見せかけのものが、これ以上大きくならないようにするため」だったのだとか。
そして、人気があった26歳で急逝してしまいましたね。
このことも、尾崎豊さんがさらに「カリスマ的存在」になったことに拍車をかけたのでしょう。
尾崎豊の魅力や人柄
「尾崎豊さんの魅力は?」と問われると、いくつも思い浮かぶのではないでしょうか。
カッコいい容姿だけでなく、メッセージ性の強い音楽を生み出す力。
その音楽をさらに輝かせる感情を込めた歌い方も素敵ですね。
そして、どこかナイーブな部分も持ち合わせているところも惹かれる部分なのでしょう。
尾崎豊さんの人柄は、優しかったようですね。
行きつけの居酒屋で、ファンが尾崎豊さんを見つけて騒いだことがありました。
そのとき店主はファンに「プライベートだから静かにしてやってくれ」と頼んだそうです。
しかし尾崎豊さんは「大丈夫だよ」と言って快くサインに応じました。
ファンのことを、とても大事にしていたことがわかりますね。
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